第8話

 そばで人間の気配を感じたり、触れられたりすればすぐに目が覚める。ろくでなしの父親のおかげで身についた癖は、ある時から藍玫を困らせるようになった。


「あ、おはよう玫玫メイメイ


 目を開けると、昊天が笑いかけてきた。下心を隠した笑みに、尻に触れる手。いつものことだ。


「ほんとに尻が好きだな、君は」


 心底呆れて言うと、藍玫は恋人の腕の中であくびをした。


「いい加減飽きないのか?」


「飽きないよ。藍玫の反応もかわいいし」


「馬鹿なことを……」


 下心丸出しとはいえ、好意を向けられて悪い気はしない。照れ隠しで胸板に額を当てて、抱き締めてもらう。素肌の上にシーツ一枚だから、肌の温もりが伝わって心地好い。


「お尻触られるの嫌?」


「嫌というか、恥ずかしい」


「恥ずかしがることないよ。素敵なお尻なんだから」


 尻を撫で、優しく揉みしだく昊天。


「止めてくれ。シャワー浴びるから」


「あ、じゃあ僕も一緒に」


「何もしてやらないぞ?」


「分かってるよ。朝からそんながっつかないって」



 休日は昊天と二人、北京のホテルで過ごすのが習慣になっていた。官舎で二人で過ごすのは規則に反するし、何より他の隊員の目がある。分隊の面々と小隊長には知られているが、昊天が転属になるリスクを考えると、わざわざこの関係を大っぴらにしたくはない。


「今六時だって。早く起き過ぎたね」


 浴室からバスローブを着て戻ると、先に戻っていた部屋着姿の昊天が、朝のニュースを観ながら言った。


 枕元に置いた伊達眼鏡をかけて、昊天の隣に座る。ウイグルで初めて一緒に聞き込みをした時、「目つきが鋭くて地元の人から恐がられるから」とかけるように言われてから、休日は伊達眼鏡をかけずにはいられない性分になってしまった。


「今日なんだけど、買い物に付き合ってくれないかな? 母さんにプレゼントを買って帰りたいんだ」


「何を買うんだ?」


「冷蔵庫」


 そこは花とかではないのかと訝っていると、昊天は苦笑しながら理由を言ってくれた。


「うちの冷蔵庫、冷凍室が壊れちゃったんだって。新調するらしいから、それなら僕が買おうと思ってね」


「なら運ぶのも手伝ってやるから、実家には今夜帰ったらどうだ?」


「え、良いの?」


「丸太ほど重くはないだろうしな」


 藍玫は得意顔で言った。自分の休日は今日までだが、昊天はあと三日ある。チベットに送り込まれて春節を仕事に費やし、帰ってきた矢先に全人代の警備担当として小隊を指揮し、ほとんど休みなしに働き詰めだったというのに、たった四日の休暇は割に合わない気もするが、本人は不満の一つも漏らさない。 


「ありがとう、藍玫! あ、じゃあちょうど良いし、君のことも両親に紹介するよ」


 名案を閃いたとばかりに声を弾ませる昊天。藍玫は困り顔を向けた。


「部下ということにしてくれ。話なら合わせるから」


「恥ずかしがることないだろ。それに母さんは勘が鋭いから、すぐバレるよ」


 昊天は笑って言った。いつかそんな日が来ることは分かっていたが、まだ心の準備ができていない。


「付き合いを止めろと言われるな」


 諦念からそんなことを自嘲気味に言ってしまうと、昊天もようやく意味するところを察してくれたらしく、眉を顰めた。


 父親は外交部の副部長で、母親は大使の娘でアメリカ育ち。そんな両親の一人息子である昊天は、欧米の価値観に触れる機会を積極的に与えられてきた、立派な上流階級の嫡男だ。


 片や藍玫は西環の下町で生まれ育ち、父は三合会の傘下組織の準構成員という、ヤクザ者としても半端なろくでなしの穀潰し。母親も都会での暮らしに憧れて南丫島から出てきたのに、そんなゴミのような父親とくっついたばかりにつまらない人生を送って、藍玫が十六歳の時に過労で死んだ。真っ当な人間だったおかげで西環の住人からも可愛がってもらえたが、頭の出来は並に遥かに劣る人だった。


 まるで正反対の世界を生きてきた、正反対の家柄。しかも父親はヤクザ。武警に入れたのが奇跡のような家系なのだから、釣り合わないどころの話ではない。紹介されても、先方が難色を示すのは目に見えていた。こればかりはどれだけ功績と階級を重ねようが、拭い去ることはできない。


「藍玫は、僕のことどう思ってるの?」


「は?」


 納得してくれたのかと思いきや、昊天はまるで浮気を疑っているかのような問いかけをしてきた。


「僕は子供を持つのが夢だって、前に話しただろ? 何で君に話したと思う?」


「話の流れで教えてくれたんじゃないのか?」


 子供の頃は通訳に憧れていたという昔話から派生して教えてくれたことだ。確かにそんな会話の流れだったはずだが、昊天は呆れたようなため息を吐いた。


「違うよ。君と子供を作りたいから話したんだよ」


 やや怒っている様子で、それなりに大事な話を切り出した昊天。藍玫は顔が熱を帯びてくるのを自覚しながら、固まった。


「な、何を言ってるんだ阿天」


「本気だよ。君と結婚したいと思ってる。でも君はそのつもりがないの?」


「何でそんな話になるんだ。飛躍し過ぎじゃないか」


「飛躍してないよ。地続きだ。僕は君のことを両親に紹介したい。すると君は止めてくれと言った。もしかして君は遊びで付き合ってるんじゃないかと思ったから、僕の思いを伝え直すことにしたんだよ」


 まるで子供に説教するかのように順序立てて言ってから、昊天は手を取って握った。


「僕は君と結婚したいんだ、藍玫。君と結婚して、君と、君との子供と、幸せな家庭を作りたいんだ。親は僕が説得する。もちろんご両親のことも隠さず話した上で認めてもらう。心配しないで」


 まっすぐに見つめてのプロポーズ。紅潮しきった顔のまま目を丸くする藍玫に、昊天は笑いかける。


「大丈夫だよ。テロリストを説得するよりずっと簡単だ。僕を信じて、玫玫」


 穏やかな声で、愛称を呼んでくれる最愛の人。腹立たしくて仕方なかったはずのこの笑顔が、今では自分にとって一番の救いなのだから、人生というのは不思議なものだ。


「ありがとう、阿天」


 笑い返した藍玫を、昊天は抱き寄せてくれた。




「――っ」


 視界が白んで、目を開く。静かな部屋。九龍半島を望む見慣れた景色。


 西環に今年完成した、西環貿易中心大厦。八十六階から九十階に入るコンドミニアムの最上階の景観は、転居からまだ数ヶ月ということもあって、壮観だ。


 枕元のスマートフォンを取って時間を確認すると、時刻は午前九時。いつもより三時間も余計に寝てしまったのは、昨晩いつもより長く飲んだからか。


 通知の中に、長らく使っていなかったメッセージアプリからの通知を見つけて、タップする。昨晩の再会を思い出して、表情が緩んだ。


「私もだよ、阿天」


 会えて良かったとのメッセージに、そう呟いて、同じ返信を打つ。


 周昊天との出会いは、暴動鎮圧のために新疆へ送り込まれた時のこと。ウルムチで暗躍するイスラム過激派を掃討するため、北京から送り込まれた藍玫の部隊が最初に投入された制圧作戦で、窮地を救ってくれたのが彼だった。雪豹突撃隊が展開する作戦区域に単身乗り込んできて、自爆を試みようとするテロリストを説得して投降させ、そればかりか過激派のアジトに繋がる情報まで引き出したのが、新米少尉でしかなかった昊天だった。


 この情報入手の功績と現地指揮官からの要請もあって、藍玫が率いる分隊に彼を同伴させ、テロリストの制圧と捕縛、そしてその場での効率的かつ脱法的な尋問という無茶を実践させられることとなり、藍玫が彼の護衛を担当した。


 三ヶ月の作戦でイスラム過激派を掃討することに成功し、まもなく彼が北京に転属となったのを機に交流が深まり、交際に発展したのはそれから一ヶ月後のことだった。


「あ、おはよう幇主」


 リビングに向かうと、孔銀雪コン・インシュエがテレビを観ていた。十六歳で香港大学に通う天才。薄く暖色がかった銀髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしていて、背格好が華奢なせいもあって大人びた私服はあまり似合わない。


「おはよう、銀雪。橙華は?」


「もう会社に行ったわ。ザキルさんから電話で呼び出されちゃって」


 ウルムチの支社を取り仕切っているウイグル人の幹部だ。二年前から公安部の取り締まりに託つけたウイグル族への嫌がらせが続いていて、その対応について相談を受けたのだろう。


「誰か逮捕されたのか?」


「営業が二人ね。ケバブ立ち食いしてただけなのに串が危険物だから逮捕だって。もういい加減にしてほしいわ」


 うんざりしたような銀雪のため息に、藍玫も全くその通りと頷いた。


 東トルキスタン民族解放戦線を名乗るイスラムテロ組織が、北京で同時多発テロを起こしてからというもの、ウイグル族への風当たりは強まる一方だ。テロリストを制圧する立場にあった藍玫としては当局の苦心も理解するが、かといって無実の民間人に嫌がらせのような真似をするのはいい加減にしてもらいたい。


「あ、ご飯食べる?」


「あぁ、頼む」


「オッケー」


 銀雪が立ち上がって、キッチンへ向かう。朝食ができるまでに、シャワーでも浴びておこう。


 浴室に向かい、シャワーで寝汗と眠気を洗い落とす。それが済んでバスタオルで身体を拭き終えると、藍玫は洗面台の鏡に写った裸体に目が留まった。


「…………」


 何のことはない、とっくに見飽きた自分の身体。現役の時から弛みもしていない、引き締まった健康な身体。そこに穿たれた一つの弾痕と、縦一線の傷痕。消えることのない、喪失の証。下腹部にあるそれを指先で撫で、そして唇を噛む。


「ご飯できたわよー」


 キッチンから銀雪が声をかけてくると、藍玫はバスローブを着て出た。


 朝食はいつも通りのトーストとハムエッグ、それにコールスローサラダとコンソメスープ。銀雪が作る朝食は決まってこれだ。


「はい、お茶」


「ありがとう」


 テーブルに着くと、銀雪が鴛鴦ユンヨン茶と新聞紙を置いてくれる。新聞を読む前にスマートフォンを取って画面を起動させると、メッセージアプリの通知をタップする。


「わたし昼から大学行くけど、幇主どうするの?」


「その後に出るから、戸締まりはしなくて良い。帰りは何時だ?」


「多分夜かな」


「そうか。気を付けるんだぞ」


 また今度会いたい、との昊天からの問いに、色好い返事をしておく。今日の夜は役員会議があるからゆっくり会うことはできないが、会社のことは基本的に橙華に任せている。明日以降なら調整がつくだろう。


「幇主、どうかしたの?」


 唐突に訊かれて、銀雪の方へ向き直ると、心配そうな顔をしていた。


「何かニヤけてるけど」


「え?」


「何か良いことでもあった?」


 銀雪は聡明だし器用で、それに気配りもできる。話してしまっても構わないだろうが、やはり心にしまっておきたい。


「猫に囲まれて寝る夢を見てたんだ。動画で観たことがある内容だったから、その元ネタを探してるところだ」


「あ、そう……」


 信じてはいなさそうだが、何かしら察してはくれたのだろう。それ以上は追及されなかった。

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