第6話
振興会主催のパーティは八時にお開きとなった。ちょうど黒蜂を乗せた飛行機が上海に向けて飛び立った頃には、持ってきておいたいつもの服に着替えを済ませて、橙華と一緒に
いつもなら一緒に帰宅するところだが、個人的な約束があるからと橙華は先に帰らせて、
「
バックヤードから恰幅の良い店主が出てきて、朗らかな顔で応対してくれる。小さい頃からの顔馴染みだ。
「奥の個室、空いてるかな?」
「いつでも空いてるよ。このところは景気が良くなくてね」
自虐的に笑う店主。店内にいる客は確かに疎らだ。見知った常連は藍玫を見るなり畏まったように座り直してお辞儀し、観光客らしき三人組はそんな様子を訝っている。
「日本人か」
「よく分かったなぁ。いやぁ、
それで気前良くホールケーキを提供してやったのだろう。三人組がひそひそと交わす日本語からして、そう察せられる。黒蜂を受け入れるに当たって銀雪と一緒に勉強したのだが、こういう時にやっておいて良かったと思える。
「何か食べるかい?」
「赤ワインと、それに合うつまみを一つ持ってきてくれ」
「よし、任せてくれ!」
「それから、もうすぐここに男が来るから、訊かれたら通してやってくれ。ボディチェックはしなくて良い」
「よしよし、分かったよ!」
店主に通されて、奥の個室へ向かう。扉で隔てられた、四人掛けのテーブル席。養子として育てた子供達の誕生日は、ここや街にある飲食店を貸し切って誕生日会を開くのが、藍玫の決め事だった。
そんな生活も十年が経ち、そばに残った子供は三人。欧米や中国本土に巣立った子供は十四人。死なせてしまった子供は二人。みんなこの辺りの住民には可愛がってもらったし、今でも良くしてくれている。
「お待たせ、玫玫」
店主の奥さんが運んできたのは、チーズの盛り合わせに赤ワイン、それにグラスが二つ。
「ありがとう。自分でやるから、置いといて」
「そう? じゃ、ごゆっくりね」
ニコニコ笑顔の婦人に笑みを返して、ワインの栓を抜く。合法事業として取り組んでいる貿易会社で、橙華がフランスから仕入れた代物だ。値段からして大したものではないが、大衆洋食屋の提供品としては十分な味わいと香りで、聞くところによればかなり好評だという。
「普通だな」
一口含んで味と香りを楽しんで、一言感想を呟く。パーティで飲んだワインの方が上等だったが、リッツ・カールトン相手に下町の洋食屋が張り合うのがお門違いというものか。
「玫玫、お連れさんだよ~」
まもなく婦人が戻ってきて、扉を開けた。奥に立っている背広姿の刑事を認めて、胸が高鳴る。
「じゃ、ごゆっくりね」
ニヤケ顔で言って、扉を閉める。向かいに座った相手の方へ向き直ると、固い表情に思わず吹いてしまった。
「君のそんな顔を見るのは久しぶりだな」
努めていつも通りに、彼が知っている自分を思い出して演じてみると、向こうも緊張が解けたように笑った。
「ほんとに久しぶりだよ、
懐かしい北京語の呼び方に、胸が高鳴った。
「モールスで待ち合わせ場所を指定されるの、久しぶりだから間違ってないか不安だったよ」
九時、縄張り、牛。そうモールス信号を打って見せたが、ちゃんと読み取ってくれたおかげでまた会えた。
「十年ぶりか?」
「そのくらいだね」
「元気そうで何よりだよ、
懐かしい呼び方を口にして、胸が温かくなった。
「飲むか?」
「うん。もう今日は仕事上がりだしね」
「再会を祝して」
グラスを取って乾杯をし、また一口飲む。昊天も一口含んで味わってから、飲み下した。
「北京の料理屋よりは美味しい」
「うちの会社で仕入れたフランス産だ」
得意気になって言うと、昊天はばつが悪そうに笑った。今の自分を立場を理解してくれている、というわけではないらしい。
「香港にはいつから?」
「先月からだよ。人材交流ってことで、半年だけね」
「そうか。退役したのは?」
「三年くらい前になるかな。張大校の伝で移ったんだ」
公安当局に強いコネを持っている人だ。自分が退役した時にも声をかけてくれた人だから、よく知っている。
「香港に行くってなった時には君と会うことになるんじゃないかと思ってたけど、こんなにあっさり会えるとはね」
「香港はさほど広くない。それに陳の下についたんだったら、遅いくらいだ」
そう言ってチェダーチーズを一つつまむ。
「君の話、陳さんから色々聞いたよ」
何を吹き込まれたのか不安になったが、その表情が柔和なのを認めて、少し安心する。
「西環の人達からは、凄く頼りにされてるんだって?」
「何だ、悪口じゃないのか?」
「それもなくはなかったけど、基本的に褒めてたよ。三合会のタイラー・ルンを相手にジョン・ウィックみたいなことしてたって」
それは褒めたことになるのか微妙なところだが、自分のことは親と同じくらい知っている彼が言うのだから、肯定的に受け止めておこう。
「阿天はその後どうなんだ?」
今度は気になっていたことを訊くことにした。
「良い人とは出会えたのか?」
昊天は微かに笑って、小さく頷いた。
「結婚して、息子も生まれた」
「そうか、良かった」
心からそう思えて、内心安堵した。微かに弾んだ声に、昊天はやや驚いた様子だった。
「夢が叶ったな」
「あぁ……でも、もう別れたんだ」
ばつが悪そうに笑う昊天。余計なことを言わせてしまった。
「すまない……」
「君が謝ることないよ。まぁ、人生上手く行かないよね。再婚を考えようにも、今は仕事で出会いもないし」
昊天は笑って、
「君はどうなんだい?」
同じ質問を返されて、首を振る。
「いると思うか?」
「君なら選り取り見取りだろ」
「私に釣り合う男がいないんだよ。これまで釣り合ってたのは君だけだ」
「釣り合えてたかな?」
「私は今でもそう思ってる」
真面目な調子で本心を告げると、昊天は照れくさそうに下を向いた。
ドアがノックされて、店主が返事を待たずに開けた。盆に乗せて運んできたのは、この店で一番高いサーロインステーキだ。
「これ、玫玫のご友人にサービスね!」
「えっ!? いや、悪いですよ!」
「良いって良いって! 玫玫にはいつも助けてもらってるんだから、そのお返し!」
見たところ二人分の大きさだ。相当奮発したことだろう。
「もらってやってくれ」
「あ、あぁ……じゃあ、いただきます」
「うん! じゃ、ごゆっくりね!」
店主がドアを閉めると、昊天は特大サイズのステーキに面食らいつつ、ナイフとフォークを取った。
「三合会の連中だと、こんなことないだろうね」
「だろうな」
「やっぱり君は、何も変わってない」
安堵したような物言いに続けて、
「これ、食べるの手伝ってくれない? 一人じゃ無理だよ」
「私ももう食事は済ませたんだ。あまり力にはなれないぞ」
「頼むよ。残すのも悪いし、切り分けは僕がやるからさ」
昊天は元々小食だ。夕食を食べていなくとも、この分量はやはり苦しいか。
「仕方ないな。一つ貸しだ」
いたずらっぽく笑って言って、藍玫もフォークを取った。
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