第5話
翌朝十時に迎えが来てくれた。橙華と護衛が二人ほどで来ると思っていたが、車から降りてきたのは橙華だけだった。
「ご迷惑をおかけしました、陳刑事」
「いつものことだ、今さら気にすることないだろ」
形式的な橙華の詫びをあしらう陳刑事。一緒に見送りに出てきた所轄の刑事達も、さっさと帰れと書いてある顔で、やり取りを見守る。
「行儀良くしてた?」
「まぁ、そこそこ」
橙華にそう答えると、スモークを張ってある後部座席のドアが開いて、藍玫が降りてきた。
幇主が迎えに来たのはこれが初めてだ。陳刑事や他の刑事達も目を丸くして、ジャケットとカーゴパンツ姿の彼女に注目している。
「お前が迎えに来るなんて誰以来だろうな」
「初めてじゃないかな。叔父が捕まった時も、迎えに行った記憶はない」
いつものように淡々とした物言いで答えた藍玫の関心は、陳刑事のそばに立っている周刑事に向いた。
「見かけない顔がいるな。新入りか?」
「北京警察から人材交流でこちらに来ている、周刑事だ。お前と同じ、元武警だよ」
「あぁ、そうなのか」
何でもないことのように応じて、藍玫は車体にもたれかかる。ドアに右手を添えて人差し指を立てると、コンコンと小突きながら、
「司法警察は武警出身者を優遇してくれるというし、それなりに勤め上げた後なら待遇も相応だろうな」
「そうは言っても、お前の会社には負けるだろ。軍人と比べたら年収が三倍も違うって聞くぞ」
「代わりにうちは福利厚生が弱い。一長一短だよ、刑事」
話す間、藍玫はドアを指先で叩き、或いは縦に引っ掻いている。指先でデスクや車体を小突くのは苛立っている時の癖だが、どうにもそれとは違って見える。
黒蜂は視線の先にいる周刑事の方を向いた。俯き加減の彼の手を見下ろすと、スラックスの上から太ももを同じように指先で小突いている。きっと藍玫のそれを後追いしているのだろう。
「まぁとにかく、黒蜂にはちゃんと言って聞かせるから、心配しないでほしい。この街の市民を傷つけるような真似はしないし、させない」
「是非そうしてくれ、幇主様」
嫌味な物言いとともに、陳刑事が背中を叩く。さっさと帰れと態度で告げられて、黒蜂は一礼をしてから橙華と藍玫のもとへ向かった。
「えー、バレちゃったの?」
香港島へ帰る道すがら、ちゃんと隠し通せたかを橙華に問い質されると、黒蜂は期待に応えられなかったことを詫びた。
「商談に行ったのはバレちゃった。ごめん」
「うーん、北京の警察は優秀だって聞いてたけど、評判通りってことかなぁ」
とはいえ、商談の中身はまだ知られていないし、相手も分からなければ追及のしようがない。そんなことのために街中の膨大な監視カメラの映像を確認するほど、陳刑事は暇人ではない。
「で、ケジメは拳骨一発で何とか許してもらえないかなぁ……?」
黒蜂は後部座席の藍玫に恐る恐る訊いた。何かやらかせば幇主か直系の上司から鉄拳制裁を受けるのが、王血幇の慣わしだ。14Kや新義安の中には、即抹殺だの指を詰めるだのといった制裁を課すところも珍しくないから、これでも十分優しい部類だ。
「今回は良い。相手はあの新入り刑事だろう?」
誰を相手に看破されたかを詰められると思っていたが、あっさり見抜かれてしまった。
「お前のような奴は苦手な部類だ。仕方ない。出張先の仕事で挽回しろ。それができなかったら、殴る」
「うえぇ……」
武装警察仕込みの幇主の拳はその辺のヤクザ者の比ではない。先日の祝いの席で酔っ払った末に押し倒した時には、一発で気絶してしまったほどだ。
「幇主、あの刑事さんと知り合いなんですか?」
慄いているところへ、橙華が代わりに気になっていたことを訊いてくれた。
「新疆に派遣された時に一緒に仕事をした。同い年で、彼は士官学校を出たばかりの少尉だった」
「へぇ~」
「あの人雪豹じゃなかったんだよね? どんな人だった?」
「うるさいひよっこだった」
懐かしげに言って、藍玫は香港島の方へ視線を投げる。
「ただ、口先は達者な男だったよ。テロリスト制圧の現場に乗り込んできて、自爆するつもりの相手を説得して投降させたこともあった」
「武警にあるまじきやり手ですね」
「あいつは穏和な話し方で距離を縮めて、情報を聞き出すのが得意なんだよ。お前もそれで話してしまったんじゃないか?」
「まぁ、そんな感じ」
「現地住民とも心を通わせるようなやり手だ。今度から気を付けるんだな」
武装警察なんて野蛮人の集まりだと思っていたが、搦め手も使える人間はいるらしい。
「橙華、今夜の予定は?」
藍玫は前へ向き直って訊いた。
「六時からリッツ・カールトンで貿易振興会主催のパーティに出席予定です。八時過ぎには終わると思いますが、どうかしましたか?」
「いや、何でもない。黒蜂は八時の便で東京へ向かえ。チケットは取ってある」
「はーい」
帰ったらさっさと荷造りをしてしまおう。黒蜂はそう思った。
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