選手控室

 泣きじゃくっていた彩音も真っ青な顔になった新堂を見て何かを察したのか、ふいに涙が止まった。それは本能が「泣いている場合ではない」と警告を発しているかのようだった。


 新堂は選手だけあり、控室への行き方を知っている。彩音の手を引いて、会場内の通路を足早に進んでいく。


「関係者の方ですか?」


「彼女が伊吹の奥さんです」


 止めようとしたスタッフに新堂が答える。まだ結婚はしていないが、奥さんと言えば門前払いする人間もいない。スタッフはあっさり「どうぞ」と道を譲った。


「伊吹! 大丈夫か!」


 控室へ続く通路を歩きながらわざと大声で叫ぶ。控室は選手ごとに仕切りで中が分からないため、関係者に自分の位置を知らせる意味合いがある。


「あ、新堂君」


 期待通りに伊吹のトレーナーが出てくる。一瞬だけ「なんでこっちまで来たんだ?」という顔をしたが、隣に彩音の姿を認めると新堂の意図を察したようだった。


「伊吹は今どういう状態っすか?」


「それがな……」


 トレーナーが何とも歯切れの悪い口調で言う。


「まだ意識が戻っていなくてな。さっき救急車で病院に直行した」


 二人とも声を失った。


 試合後に救急車というのはそう珍しい話ではないが、まだ意識が戻らないというのはおかしい。おそらく外部からの刺激や呼びかけにも反応が無かったのだろう。


「マジか……」


 新堂はそれしか言えなかった。


 しばらくフリーズして「病院ってどこですかね?」と訊いてみると、救急車の付き添いで行ったトレーナーがいたので、その人経由で連絡をくれるとのことだった。


   ◆


 ほどなくして、搬送先である病院の情報が届いた。新堂は伊吹のトレーナーに礼を言って辞去した。

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