伊吹丈二対ファン・カルロス・ロブレス4

 戦法は間違っていない。後は倒すだけ。


 伊吹は心の中で呟き、ガードを固める。またロブレスへと距離を詰めていく。


 また左ボディーで――そう思ったところに、ロブレスの左ロングフックが飛んでくる。ガードする。想像以上の衝撃。威嚇目的が強いのだろうが、それにしては殺傷力が高過ぎるように感じた。


 衝撃で足元がふらつく。わずかな隙間に、ロブレスが距離を詰めてきていた。


 ――来いよ、倒してやるから。


 強気の伊吹。ガードを絞る。一撃必殺のカウンターを入れるタイミングを計る。


 ロブレスが踏み込む。左ストレート――何度も間近で見てきて、伊吹はロブレスの癖を掴んでいた。


 右のガードを上げながら、左フックを振る。これが当たれば、ロブレスでも倒れる。


 会場内に激しい衝突音が鳴り響く。


 衝撃で、一人がキャンバスに崩れ落ちた。


 ――倒れていたのは伊吹の方だった。


 ロブレスは左フックのカウンターが来るであろうことを予測し、罠を張っていた。伊吹が戦力をカウンター中心に切り替えたのを察知したロブレスは、カウンター来るようなタイミングで動きのフェイントを織り交ぜた。


 素直に左ストレートが来ると予測した伊吹はカウンターの左フックを放ったが、伊吹がタイミングを合わせたのはダミーの方だった。ほんのコンマ数秒のタイムラグで鼻先を通過していく左フック。それに合わせて、ロブレスは本命の左ストレートをここぞとばかりに打ち抜いた。


 カウンターを当てたとばかり思っていた伊吹は、見事に左を被弾して崩れ落ちた。


 レフリーがカウントを始める。会場から悲鳴が上がった。伊吹は何が起こったのか分からず、しばらく呆然とマットに座っていた。


 ――何だ?


 ――何が起こった?


 視界が歪んでいる。レフリーが目の前でカウントを数えている。なんでだ? カウンターを当てたのは俺の方なのに。


 伊吹の脳内は混乱していた。会場には悲痛な声が響いているが、朦朧としている伊吹の脳内にはそれが届かない。


 なぜか客席に目が行った。彩音が死にそうな顔で声を上げ、その隣で新堂が立って大声を送っている。


 おい、やめろよ。後ろのお客さんが見えなくなるだろ?


 新堂、全くそういうところが――


「シックス」


 シックス? 何がシックスなんだ?


「あ」


 時間差で伊吹は状況を理解した。立ち上がり、レフリーに向かって構える。


「Are you OK?」


「大丈夫だ。Have a nice day」


 余裕を装うために英語で話すも、逆に意識障害を疑われそうな言葉だった。


 倒れた選手から「良い一日を」と言われたレフリーは、まじまじと伊吹の眼を覗き込む。祈りを込めて、その眼を睨み返した。


「オーケー」というのが分かり、その後に「危なくなったらすぐに止めるからな」といった内容のことを英語で言われたのが分かった。


 試合が再開される。歓声なのか悲鳴なのかよく分からない声が場内で上がる。


 一歩を踏み出してみる。後頭部がビリっと痛んだ。何かヤバそうな感じがする。試合を止められても文句は言えない。それだけのダメージを負っているのを悟った。


 俺に残された時間は長くない。


 ニュートラルコーナーからロブレスが出てくる。無表情で、肉食獣みたいな顔立ち。


 正直なところ、もう勝ち目が薄いことぐらいは分かっている。だけど、それでも何か一太刀でも入れてやりたいと思うのが人間の心情だ。


 セコンドを見やる。トレーナーがタオルを握って、じっと伊吹を見ている。現行ルールではセコンドの判断で試合を棄権する場合、タオルをリングへと投入するのではなく、タオルをレフリーに向かって振り回すことで棄権の意志を表示することになっている。


 伊吹はトレーナーがなぜそんな顔をしているのかすぐに分かった。彼は試合を棄権しようとしている。


 伊吹は首を振った。絶対に止めるな――無言でそう答えた。


 一歩一歩踏み出すごとに、頭に激痛が走る。先ほど受けたパンチがよほど効いたのか、生物的に危機を感じるほどのものがあった。チャンスはせいぜいあと一回……。


 迫り来るロブレス。来いよ。死ぬ気でやってやる。


 ロブレスが踏み込んでワンツーを放つ。二発目の左ストレートと同時に、全力の右を放った。伊吹を取り囲む世界が白くなる。


 轟音――そのあと、すぐに静寂が訪れた。


 会場の誰もが数秒の間、時間を止められたかのように固まった。


 リングでは伊吹とロブレスが大の字で倒れていた。


 伊吹の放った右ストレートは、ロブレスの顎を打ち抜いていた。対してロブレスの左も伊吹の顔面をとらえていた。


 捨て身の一撃――攻撃している間は動くことが出来ない。伊吹は一太刀を入れるために、相打ちをあえて選択していた。


 故意に生み出されたダブル・ノックダウン。その結果が今の景色だった。


「ダウン!」


 我に返ったレフリーがカウントを始める。両者に向かってカウントしている。


 時間差で会場がどよめく。どうリアクションするのがいいのか分からないようにも見えた。世にも珍しいダブル・ノックダウンの瞬間に出会ったのだからそれも仕方がない。


 カウントが進む。


 観客は伊吹コールでその意識を呼び起こそうとする。ロブレスも驚いたような顔で目を開いたまま、じっと天井を見つめていた。


「ファイブ、シックス……」


 さらにカウントが進むと、ロブレスがハッとした顔で首だけを起こす。先に意識を取り戻したのはロブレスだった。


 ロブレスは一度性急に立ち上がろうとして、膝が揺れてもう一度倒れ込む。会場から歓声が上がる。伊吹はまだ意識が戻らない。


 ロブレスが転んだせいか、レフリーが一瞬だけカウントを止めた。そこでわずかなタイムラグが出来た。


 なんとか立ち上がろうと、ロブレスはコーナーロープを掴む。膝は明らかに震えているが、立ち上がりさえすれば勝ちだ。


 小鹿のような足でレフリーに構える。レフリーに「やれるか?」と訊かれて、「もうやる必要もないだろうよ」と答えた。レフリーが伊吹を一瞥する。ロブレスの続行を認め、そのまま彼のKO勝ちとして試合を終了させた。


 3回鳴らされるリング。


 会場には「ああ」という声が響いた。


 それでも激闘を制したロブレスの勝利が告げられると、素直にロブレスの闘いを賞賛した。当初のブーイングは消えて、それはねぎらいの拍手へと変わっていた。


 ――伊吹の夢が散った。


 ボクシングでは一度逃したチャンスが二度と来ないことがザラにある。国内で無敵だったとはいえ、伊吹が次のチャンスを得るためにはまたつらく長い道のりが待っているだろう。それを思った観客達は何とも言えない気持ちでリングへ視線を注いでいた。


 ――だが、事態は皆が思っているよりも深刻だった。

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