選手入場
この日の興行は4回戦の無い興行だった。大会場を押さえているのもあってか、オープニングマッチはA級ボクサーの倒し屋対決だった。期待通りにノックアウトで試合が終わると会場はいい感じに温まり、2試合目に切り替わる。
2試合目以降の試合も、ことごとく前半ラウンドでのKOで終わっていった。会場は大盛り上がりだった。あっという間に伊吹の試合がやって来る。
煽り映像を流すために部屋が暗くなるその刹那、新堂は視界の端で彩音が震えたのに気付いた。「大丈夫だ」と囁く。
煽り映像では恐ろしい鬼を退治しに行く桃太郎のような構図で映像が流れていく。だが、いかんせん今回の鬼は強すぎる。
――フアン・カルロス・ロブレス。ボクシング界の問題児であり、最も注目を集める選手の一人。
煽り映像で紹介される褐色のクルーカットは、長い顎鬚を揺らめかせながら信じられないスピードで相手の懐へと飛び込んでいく。おそらく主観的に瞬間移動にも見えるそれは、対戦相手をそれだけで圧倒する。
刹那、あまりにも暴力的な左ストレートが打ち込まれる。大砲のような音を立てて、対戦相手はリングへと大の字になった。
「うわ……」
何度も映像で見ているはずなのに、会場の巨大なビジョンで見ると一層ロブレスの左ストレートは凶悪に見えた。
ネットの名無しから「魔人の左」と名付けられたそれは、映像が切り替わるごとに何人もの選手を糸の切れた人形のように壊していく。
「お前に、俺の左が耐えられるか」
カメラに狂気の微笑みを浮かべるロブレスは、どちらかと言えばもう人間とは別の生き物と評した方が適切なように思えた。
「さあ、時は来た」
映像が終わると、会場が一気に沸く。ロブレスの試合は海外でないと生観戦が難しく、ネットでは裏メインと言われていた。それだけあって、観客の反応も熱狂的なものになった。
「はじめに挑戦者、伊吹丈二選手の入場です」
観客が一気に沸き、あちこちから伊吹コールが起こる。ネットの評価は散々だったが、「勝ち目は低くても応援はするぞ」という人間がかなりの割合で混ざっているのかもしれない。
伊吹は花道を歩いて来ると、彩音達に手を振った。彩音が珍しく「丈二~!」と叫んでいる。アイドルのコンサートに来た素の彩音を見たみたいで、新堂は少し面白くなった。
伊吹もいい顔でリングに上がっている。緊張が全く無いということは無いだろうが、良い意味での緊張感を持っている印象を与えた。リング中央で高速シャドウをすると、それだけで観客が沸いた。
次に登場するのは、フアン・カルロス・ロブレスだった。
会場全体が息を呑んだのが分かる。会場に響く静かなラップミュージック。畏怖の視線を注がれながら、ガウンに身を包んだロブレスが現れる。
その顔には気負いや緊張など無かった。あるのは純粋な野性だけ。
ロブレスはトップロープを掴むと、そのまま一回転してリングインする。往年の名選手ナジーム・ハメドと同じ入場方法だった。
リングに着地したロブレスは、軽いステップを踏みながらキャンバスを一周する。黒光りする筋肉がガウンの隙間から垣間見えて、多くの者が密かに息を飲んだ。
「それでは皆様、ご起立下さい」
アナウンスが響くと、おのおのがその場で立ち上がる。
世界戦の前段階として、初めに両国の国家斉唱が行われる。立ち上がりながら、新堂は観客の視点と伊吹の立って見ている視点の両方から景色を見ようと試みた。もちろんそんなことは物理的には不可能だが、近い将来に自分も同じ舞台に立つことになる。そのためのイメージをここで得ておこうとしたのだった。
はじめにアメリカ国家が流れると、君が代の斉唱に入る。一応歌ってみたものの、音程をとらえることが出来ない。最後の方では彩音にチラ見されるほど、恐ろしく下手な国家斉唱を終えた。
再び着席すると、両者の名前がコールされる。赤コーナーのロブレスは元王者としてコールされた。体重超過をやらかして王座剥奪になったからだ。
日本にしては珍しいほど野太い声でのブーイングが響く。会見や計量で嫌われ方が倍増したようだった。
次に伊吹の名前がコールされると、珍しく右拳を相手に向けて突き出す形で声援を受けていた。
黒人の屈強そうなレフリーは両選手をリング中央へと集める。なにか荒っぽい展開が起った際にでも対応出来る人選にしているようだ。諸注意を与えると各自のコーナーに戻り、試合開始のゴングを待つ。
「ラウンド1」
運命のゴングが鳴る。両者静かにリング中央へと歩み出した。
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