試合前会見へ

 試合の日はあっという間に近付いてきた。


 伊吹の世界戦は3大メインタイトル戦というくだりで告知が成されていた。同じ日の試合では他に2試合世界王座戦が含まれており、伊吹の試合はトリプルメイン戦の1試合目だった。


 まだ世界王者でないことからメイン中のメインになれなかったが、ネットのボクシングファンからは伊吹対ロブレス戦が裏メインと評されているほど期待値の高い試合でもあった。


 伊吹の評価は元から高く、新堂との日本王座戦では「勝った方が世界王者になる」と言われてきた。その伊吹が、よりにもよって誰も引きたがらないババを自分から引いた。その心意気や良しとする者もいれば、無謀すぎると批判する者もいた。


 過去に全てを持っていたにも関わらず相手が悪かったばかりに王座へ届かなかったボクサーは枚挙にいとまがない。結局「運」の要素を論議の対象にするのが億劫になったのか、「運も実力のうち」と言われるようになった。


 そういった背景がある中で、あの伊吹が悲運のボクサーになる運命を危惧するコメントが散見された。このコメントは彩音だけがチェックしていたが、たとえ選手を気遣った上でのコメントでもそんなことを言われれば士気は下がる。結局はポジティブな内容のコメントだけ集めて本人へ口頭で伝えた。


 そのため、当の伊吹本人は良い意味で闘志に満ち溢れていた。練習も体重調整も絶好調。すでに練習後ウェイトはフェザー級のリミットに入っていた。後は微調整でどうとでもなる。


 この日は試合前の会見だった。彩音は慈善情報から、この記者会見を警戒していた。


 フアン・カルロス・ロブレスは計量だけでなく、会見でも色々とやらかしてきている。対戦相手との乱闘。終始無礼な態度でFから始まる単語を連発。絶対に子供には見せたくない映像だった。


 ボクシングはヒーロー物の特撮番組ではなく、本物の闘いだ。そこでは強い者が勝つ。残念なことに、特撮であれば倒されているはずのフアン・カルロス・ロブレスは圧倒的な強さで幾多のヒーローを潰してきた。


 ロブレスはDVで離婚や暴力事件、違法薬物所持の逮捕といった前科があり、積極的に子供へ見せたい選手ではない。そんな悪党を倒してくれるヒーローを世界中が待っているわけだが、あいにくロブレスは自分がヒーローショウの駒にされることを良しとしなかった。


 試合になると豹のように飛びつき、信じられない拳の連打を叩き込む。やや変則的なリズムで放たれるパンチに、大抵の選手は対処出来ずに倒される。そうやってKOの山を築いてきた。


 メディアはロブレスの振る舞いを批判しながらも、どこかで彼の傍若無人な行為を期待している部分がある。遺恨があった方が試合は盛り上がるからだ。


 伊吹も陣営から記者会見について注意がなされていた。その内容を要約すると、どれだけロブレスから無礼なことを言われても、またはつかみ合いのような状況になっても手を出すなというものだった。


 ――昼近い時間になった。


 会見へ向かうために、ジムのトレーナーが車を出した。彩音は現地へは行かず、家で待っていることになる。


「じゃあ、行ってくるよ」


「気を付けてね」


「ああ。とは言っても、事前の会見だからな。ああいうタイプの選手だってことは知っているし」


「乱闘とかしないでよ? いつか子供が出来たら嫌な思いをするからね?」


「はは、そうだな。じゃあ軽くやって帰って来るよ」


 そう言うと伊吹はトレーナーの運転する車に乗り込んだ。「行ってらっしゃいのチューは?」と訊かれて「やめて下さい」と笑っていた。


 彩音は車が見えなくなるまでずっと遠くから見守っていた。まるでそうでもしないと取り返しのつかないことが起きるでも言うように。

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