シーソーゲーム

 2回目のゴングが鳴ると、再び両者ともにリング中央へと飛び出していく。


 初回で左をもらったせいか、伊吹はガードを高めにして様子を見ている。新堂は先ほどのラウンドで調子づいたので、さかんに身体を揺らしながら攻撃の隙を窺う。


 伊吹がジャブを放つ。スピードの乗った、鋭いジャブ。それは矢継ぎ早に放たれ、ガード越しに新堂の顔を軽くとらえる。歓声。伊吹の応援が沸く。


 新堂は冷静にガードの奥からジャブの軌道を見極めている。右へと回り、ジャブの軌道から外れるように足を動かしている。


 伊吹がまたジャブを放つ。そこから右ストレート、また左ジャブの逆ワンツーを放った。


 三発目の左が新堂の額に当たった。想定外の威力に、思わず距離を取る。また観客が沸いた。


 伊吹は表情を変えないまま、高いガードから左を連打する。腰を落とした状態で一発一発が斜め下から迫る軌道で飛んで来るので、受ける側の新堂からすると非常にパンチが見えにくい。


 新堂もさらに腰を落とす。身長差から言えば、新堂の方がより下から攻めることが出来る。


 伊吹が何発もジャブを放ったのちに、ジャブの軌道を変えて鋭角な左フックを打ち放った。新堂のガードを叩く。その隙間に、右を打ち抜いた。


 右が一閃して、新堂が尻餅をつく。ダウン――観客の興奮が爆発する。


 レフリーがカウントを数える。フラッシュダウンだったのか、新堂は舌を出しながらすぐに立ち上がった。レフリーはカウントを6まで数えてから、試合を再開する。


 歓声に押されながら、伊吹がプレッシャーをかけていく。そこまで効いているダウンには見えなかったが、勝負どころと判断したようだった。


 先ほどよりも圧力をかけて、ガードを上げたまま迫ってくる。


 新堂もそのプレッシャーを感じたのか、正対はせずにサイドへとステップを踏む。それほど効いていないとはいえ、ダウンを取られたのは心象が良くない。ある程度の距離を取りつつ、身体を揺らしてディフェンスに徹する。


 伊吹が右フックを強振する。おそらく威嚇目的で放たれた右フックを新堂がダッキングで外すも、空気を切り裂く音に観客がどよめいた。


 新堂もビビっていない。やや大振りになった伊吹の左右を外すと、冷静に左ボディーを叩き込む。みぞおちやレバーには当たっていないものの、腹を打たれ続けると知らぬ間にスタミナを奪われていく。日本タイトルマッチは最大で10ラウンドある。長期戦も踏まえてゲームプランを立てなければならない。


 そうこうしているうちに2ラインド目が終わった。新堂の応援は安堵の溜め息、伊吹側の応援は先ほどと打って変わって盛り上がりを見せた。


「ダメージは?」


「大したことない。全然大丈夫」


 セコンドの問いに新堂は強気な言葉を返す。現にそれほどダメージはなかった。ダメージというよりは、虚をつかれて驚いて転んだ感覚だった。


「いいか。あのジャブは見ていると危ない。先に手を出してジャブを出させないか、当たらない距離で右に回れ。ガードの上からでいいから、強いパンチを当ててこい」


 インターバルの終わりを告げる笛が鳴る。セコンドがリング下に降りていった。


「ラウンド3」


 ゴングが鳴った。二人はゆっくりとリング中央へと移動する。


 今度は静かな立ち上がりだった。互いにガードを上げて、フェイントを入れながら攻撃の機会を窺う。外側に足を置くため、当事者にしか分からない地味なポジション取りが展開される。


 観客も二人の緊張感が伝わっているのか、固唾を呑んで静かな駆け引きを見守っている。


 新堂が行くぞ行くぞと右足を踏み出し、相手を威嚇する。伊吹もカウンターのタイミングを計っている。タイミングを間違えると致命的だ。


 何度か足を踏み出した後、新堂がわずかに右サイドへとステップし、そこから右ジャブを打ちながら踏み込んだ。


 伊吹が待っていましたとばかりに右の打ち下ろしを放つ。


 刹那、新堂がバックステップで消える。右ストレートが残像を打つ。すぐにステップを踏んで戻ってきた新堂が飛び込みながら右フックを放つ。


 右フックは身体の伸びきった伊吹のテンプルをとらえる。轟音――今度は伊吹が吹っ飛ばされるようにダウンした。観客席から悲鳴と驚きの声が上がる。


 遠くから見守る彩音は思わず口に手を当ててそのさまを見守っていた。電光石火と呼ぶべき攻撃は、二人の動きを知り尽くした彩音でも驚かせた。


 伊吹の右は、確かにタイミングは抜群だった。だが、新堂はその上を行っていた。新堂の見せた右、それは本命のパンチではなかった。


 罠――新堂の性急に見える攻勢は、伊吹のカウンターを誘うための罠だった。


 一見本能だけで闘っているように見える新堂も、リング上で己の頭脳をフル活用していた。リングのIQと日常生活を送る上でのIQは別物だ。新堂は身をもって証明した。


 半分は大歓声、もう半分は阿鼻叫喚の地獄絵図の中、レフリーがカウントを数える。


 吹っ飛ばされた伊吹は、カウントが始まってから倒れたことに気が付いたようだった。しばらく膝立ちになりカウント4まで休むと、ゆっくりと立ち上がった。ダウンを喫した場合の練習もしてきたのだろう。


 カウント8で構える。レフリーが伊吹の目を見る。口の動きだけで「大丈夫」と答えた。試合が再開される。


 歓声。ホールが騒がしくなる。両者を応援する声が、二人の背中を後押しする。新堂はゆっくりとその距離を詰めていった。


「当てろ新堂! 一発当てれば終わる!」


 応援のうち一人が叫ぶ。確かに伊吹のダメージは深い。


 だが、有利な状況でこそ慎重に行かねばならない。特にこの伊吹という男を相手にしている場合は。


 2ラウンド目で見せたように、伊吹は一瞬の隙を見逃さない。不用意に倒しに行けば、狙いすましたカウンターで大逆転が起こっても不思議ではない。


 新堂はガードを上げて、身体を振りながら距離を詰めていく。その姿はさながら飛びかかる瞬間を待つ肉食動物のようだった。


 新堂が速い右ジャブを連発する。ガードの上を打つと、すぐに左ボディーを顔面へ向かうのと同じ軌道で放った。鍛えられた腹筋に拳が衝突し、ホールには派手な音が鳴り響く。


 手ごたえを感じたのか、新堂がさらに攻めていく。身体の微小な動きでフェイントをかけて、ガードごと粉砕する勢いで強打を放っていく。次々と派手な音がホールに響いていく。


 伊吹も負けていない。新堂の打ち終わりに、ショートの右ストレートを打ち込んでいく。何発かが新堂の額に当たる。新堂は構わず強打でお返ししていく。新堂の左フックがガードを叩き、バランスを崩したところで3ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。観客はなおもヒートアップしていた。


「効いたか?」


 伊吹のセコンドが開口一番に訊く。


「今のは効きましたね」


 伊吹ははっきりとした声で答える。その言葉通り明白にダメージのあるダウンだったが、後半になって持ち直した。


「そうか。とりあえずさっきはよく持った。新堂は次も倒しにくるだろうから、振りが大きくなるはずだ。ジャブを止めずに、カウンターのタイミングを探れ。無理はしなくていい」


 笛が鳴り、試合が再開される。第4ラウンド。


 ゴングが鳴ると、セコンドの予想した通り、新堂がリング中央へと飛び出してくる。先ほどのラウンドで勝機を見出したようだった。


 伊吹は重心を低くする。わずかに膝が震えている。自分が思うよりもダメージが残っているようだった。


 新堂の左ストレートから遠ざかるように、左周りに速くて長いジャブを放っていく。両者のリーチ差を考えると、この距離は背の高い伊吹の方が有利だ。当たればそれだけでダウンを取れるほどの左が、速射砲のように放たれていく。


 新堂も打ち気にはやっているせいか、左の被弾が多くなる。飛び込んで右フックを振るうも、その勢いはジャブで止められる。


 目の覚めるような左は何発も新堂をとらえ、その内何発かが金髪の頭を撥ね上げた。


 観客が寝返りはじめる。たかだかジャブで、試合の形勢が逆転しつつあるのを理解しはじめた。つい先ほどまでは致命傷を負ったかのように見えた伊吹は、知らぬ間に試合の距離感を制圧していた。


 観客が沸く。明らかに伊吹のペースで試合が動いている。右を放たずとも、左の一本で形勢が逆転していた。


 第4ラウンド終了のゴングが鳴る。先ほどとは逆に、伊吹側の応援が大いに沸いていた。

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