プロローグ~溶けゆく溜め息~

 メイン戦を控えた後楽園ホール。辺りは王座戦を待つ人々で賑わっていた。各々がこれからの試合展開に思いを馳せ、どちらかが日本王者となるか意見を戦わせている。


「はあ……」


 日崎彩音ひざき あやねは会場の熱気に似合わぬ溜め息をついた。


 上品な顔立ちに亜麻色をしたセミロングの髪。お嬢様然とした服装の彩音は、ボクシング関係者の集う後楽園ホールではいくらか浮いていた。周囲から遠慮なく注がれる視線を感じるが、それは今に始まったことではない。そんなことはこれから直面する問題に比べたら遥かに易しいものだ。


 リングへの花道。応援の幟が立ち、ファンや友人がその周辺に固まりはじめる。どちらの陣営も、自分の応援する選手が勝つことを少しも疑わない顔で嬉々として試合開始の瞬間を待っていた。


 これからボクシングファンにとって注目度の高い日本王座戦が始まる。「勝った方が世界を獲るだろう」と言われているだけのビッグマッチだけあり、ネットやSNSでもトレンドに挙がっていた。


 会場の誰もがまだ見ぬ熱い闘いに心を躍らせている。


 だが、彩音の心はそんな状態とは程遠かった。


 無理もない。これから始まる日本タイトル戦の行方を考えると憂鬱になる方が普通だ。


 入場口でもらったパンフレットを眺める。本日出場する選手の写真とプロフィール。ちょっとしたインタビューやエピソードまで掲載された豪華版だ。陣営もかなり期待をかけているのだろう。


 本日のメインイベント――日本フェザー級タイトルマッチ。パンフレットに鋭い眼つきをした男の写真が並んでいる。


 この日の王座戦は当初伊吹丈二が日本王者に挑む試合のはずだった。だが、当の日本王者は試合一ヶ月前になって拳を痛めたということで試合が中止となった。


 王者に「逃げた」と辛辣な評価を投げかけるファンもチラホラと見られた。それだけ伊吹が挑めば日本王座戴冠の目算は高いとの評判であった。


 コミッションはこの非常事態を受けて、フェザー級の日本王座を空位にした。通常は暫定王座戦となるものと思われるが、いかにも怪しいタイミングで負傷した前日本王者への制裁措置ともまことしやかに言われている。


 その流れで、急遽日本王者決定戦が組まれる運びとなった。


 挑戦者はランキング1位と2位の選手で行われる。パンフレットに載っているのは当のトップランカーだ。1位の伊吹は黒髪で整った顔立ちをしており、いかにも今まで生きてきた全ての場所で主人公であったことを物語るような見た目だった。


 それに対して2位の選手は顔立ちこそ美しいものの、くすんだ金髪がどこか小汚い印象を与え、写真から溢れ出るオーラもどこか粗野なものに見えた。舞台が高校であればイケメンの学級委員長と不良が並んでいるように見えなくもない。


 これからリングで拳を交える二人は、対照的な見た目とは裏腹に数奇な運命で繋がっていた。


「こんな試合、無くなればいいのに」


 彩音は二度目の溜め息をつく。周囲のボクシングファンに聞こえたら問題になりそうな暴言だが、あいにく会場の賑わいは清楚な乙女の独り言など簡単に掻き消してしまう。


 再びパンフレットに目を遣る。


 これから日本ランキング1位と2位の選手が空位の日本王座を懸けて闘う。どちらかが栄光を掴み、どちらかの夢が砕け散る。


 そこには中間などない。勝った者は全てを手に入れ、負けた者は全てを失う。ボクシングとは残酷なスポーツだ。今日ほどボクシングが全員勝者になれる競技だったらいいのにと思う日は無かった。


 フェザー級日本ランキング1位のボクサーは伊吹丈二。2位にいるのは新堂零――伊吹丈二の友人であり、日崎彩音は当の二人と高校生活を送っていた。

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