第25話 初夜

「わっ、ギルバート様……?」


 イヴォンヌはギルバートの部屋に入った途端、強い力で引っ張られ、彼に抱きすくめられた。考える暇さえ与えない素早さに思わず面食らう。


「すまなかった。過去に囚われて何も見えてなかった。悲しみに沈んでいれば楽だから、何も考えなくていいからそこから抜け出そうともしなかった。君は何度も手を差し伸べてくれたのに、むしろ邪魔だと思う自分がいた」


「そんな、謝らなければいけないのは私の方です。勝手に家を出て行って――」


 しかし、ギルバートはさらにぎゅっと抱きしめることでイヴォンヌの言葉を塞いだ。身を清めた後なのだろう、石けんの香りにふわっと包まれる。


「そうなる原因を作ったのは私だ。君の心を傷つけて、逃げ続けて、正面から向き合おうとしなかった。怖かったんだ。良識や道徳感からはみ出たことをするなんてありえないと思っていた。最初はよかれと思って君を遠ざけた。私のような人生後半戦より将来ある若者と一緒になる方がいいに決まってると。でも、だんだん自分の弱い心を守るための言い訳として利用するようになったんだ。こうしていれば私は傷つかなくて済む」


 ギルバートの独白は終わるところを知らない。今まで押さえていた情念が一気に吹き出したかのようだ。


「でも、いつの間にか君を好きになっていた。ダンスをした時は胸が踊ったし、寝顔がかわいくてついスケッチしてしまった。建前とは裏腹に、男性と仲良くしているところを見ると嫉妬心さえ芽生えた。冷静になると、なんて年甲斐のないことをと恥じ入った。だから、すでにこの世にいない人まで利用して自分の心を守って、君を傷つけて……最低の人間だ」


「ご自身を責めないで! あなたは命の恩人なんですよ。今回だけじゃありません、あの実家から私を救い出してくれた。周りから何と言われようと私を守ることだけを考えて動いてくださった。こんな人を好きにならないわけないじゃないですか! 年齢とか些細な問題です! ねえ、ギルバート様――」


「様は要らない。こんな私でいいのなら……戻ってきてくれないか?」


「もちろんです。お慕い申し上げています。今までも、これからも」


 イヴォンヌは涙目で微笑みながら、今度は自分から両手を回してギルバートの首にしがみついた。ギルバートも自然に笑顔になる。危機を脱して和らいだ顔に戻っていたが、活気と自信が新たに備わっていた。


 そして、示し合わせたように二人の唇が合わさる。結婚式で見せた儀礼的なものではなく心からのものだ。


 ここまで来るのに長い時間がかかった。初めてのキスは甘くとろけそうと聞いていたが、実際はそんなものを味わう余裕はなかった。頭が沸騰して、世界がひっくり返るほどの衝撃に身がもたない。現実に感情が追いつかない。


 それでも、これが初めて同士なら緊張で身動き取れなくなっていただろうが、ギルバートに身を委ねていれば大丈夫という安心感が頭のどこかではあった。経験豊富な彼ならばうまく導いてくれるだろう。


 思惑通り、彼は、大きな手で包み込むように頭を支え、角度を変えながらそっと唇を落としていった。流れに身を任せるまま甘く絡め取られてしまう。キスはだんだん熱を帯びたものになり、更に未知の領域へ進んでいく。それでもこの人なら、怖いけど怖くない。


「夜、私の寝室に来てくれないか? 今度こそ本当の夫婦になりたい」


 ふと耳元で囁かれ、全身がビクッと跳ねる。その意味を理解できないほどイヴォンヌは子供ではなかった。夫婦ならば当たり前のこと、遥か前に済ませているはずのこと。それなのに、ずいぶん高いハードルに思えてしまう。しかし、返事は最初から決まっていた。


「ええ、承知しました。お伺いします」


 耳まで真っ赤になりながらそれだけ言う。そして、ひとまず彼の部屋を後にした。


(どうしよう……! 私どうすればいいの? いや、やるべきことは分かってる。でも、いざとなったら……もう恥ずかしくて訳が分からない!)  


 こんなことならさっさと初夜を済ませておけばよかった。政略結婚で何も分からないままよく知らない相手と致すなんて考えられないと思っていたが、これはこれで堪えるものがある。


 かと言って誰にも相談できず悶々としていると、玄関ホールの方が騒々しいことに気がついた。行ってみると、ルーシーとその妹サリーが再会を喜び抱き合っているところだった。イヴォンヌも、先ほどのことを一瞬忘れ、慌てて駆け寄る。


「ルーシー! サリー! 会えたのね! よかった!」


「イヴォンヌ様! 何から何までありがとうございます!」


「私は何もしてないわ、お礼なら夫に言って」


 前の日にギルバートが言った通り、サリーもこちらに呼び寄せてくれたのだ。これでルーシーの心配も解消される。三人揃って小躍りして喜びを噛み締めた。


「クロエ様から言いがかりをつけられ、外出や通信を制限されていたんです。私がイヴォンヌ様に肩入れしていたせいかと我慢していたんですが、そんな事態になっているとは知りませんでした。姉にも迷惑をかけて申し訳ないです……」


「無理を言ってでも二人まとめてこっちへ連れてくればよかった。私も反省してるの」


「イヴォンヌ様は何も悪くありません。やはり、私がもっとしっかりしていれば……」


 三人がそれぞれ反省の弁を述べた後、みんなで笑い合った。これでもう何も思い悩まなくて済む。大きな嵐は去ったのだ。 


 その夜、約束通り、イヴォンヌはギルバートの寝室へと向かった。湯浴みをし、念入りに肌をケアして夜に備える。香油入りの湯から沸き立つ湯気も彼女の緊張をほぐしてはくれない。嬉しいような怖いような、不思議な心地に包まれた。


「あの、失礼します。この時間でよろしかったでしょうか」


「うん、待ってたよ。緊張するのも仕方ないから、まず事務的な話をしようか」


 ギルバートは、肘掛け椅子に座り足を組んでいたが、イヴォンヌを見て立ち上がり、ベッドの縁に腰を下ろした。イヴォンヌもその隣に座る。


「コリンズとクロエ夫人は身柄を拘束されたよ。君に対する拉致と脅迫の罪に問われている。あとルーシーへの脅迫もね。何らかの処罰が下るのは確実と思われる。おそらく二度と君の前に姿を現すことはないだろう。もう安心していいよ」


「何から何までありがとうございます……。ルーシーのことまで面倒を見ていただいて」


「かしこまるようなことじゃない。ごめん、こんなところでする話じゃなかったかもしれない」


 イヴォンヌは分かっている。彼は、彼女の緊張を解きほぐすためにあえて関係ない話をしたのだと。


 だが、残念ながらその効果は薄かった。それもこれも、夫が格好いいせいだ。寝巻きの上に長い上着を羽織っただけのギルバートは、とんでもなくセクシーに見える。昼間見せる顔と違い、髪の毛は少し乱れ、襟元もはだけている。イヴォンヌは目のやり場に困って、辺りをキョロキョロ見回した。


「うん? どうした?」


「え? あ、はい。そのですね、あなたが余りにも格好いいものですから」


 顔を真っ赤にしておどおどと答えるイヴォンヌを、ギルバートはクスクスと笑った。


「この歳になっても格好いいと言われるなんて光栄だな。君こそ美しくて、私はどうすればいいか分からないくらい緊張してるのに」


 そう言ってイヴォンヌの髪を一房掬い、湯上がりの香りを楽しんでいる。言葉とは裏腹の行動に、余計にたじたじとなった。


「緊張してるんですか!? 全然そんな風に見えないんですけど!」


「本当だよ。内心初めての時以上にドキドキしてる。だって、かっこ悪いところを見せるわけにいかないだろう? 君をリードしなければいけない立場だからね。でも、実際は久しぶり過ぎてどうすればいいか分からない。無様なところを見せて幻滅させたらどうしようってね」


 エミリアは不思議そうにギルバートを見つめた。ギルバートでも若者のように緊張することなんてあるのか。いつも落ち着き払って、何事にも動じないはずの彼が。もしや、戦場にいる時よりある意味では緊張しているのかもしれない。


「私はどんなあなたでも大好きです。かっこ悪いところなんてむしろレアでご褒美だわ! それなら、まずはハグしませんか? あなたを身近に感じていたいんです」


 そう言うと、自分からギルバートの体に手を回してぎゅっと抱きしめた。どうしよう、自分から誘うなんてはしたない。そういや、初めて踊った時も自分から誘ったんだっけ。


 こんなに体を密着させたら、自分の心臓の音が聞こえてしまう。緊張のあまり、ドラムを打つように脈打っているのがばれてしまう。それでも彼の体温が、湯上がりの石鹸の匂いがふわっと感じられて、天にも昇る気持ちになった。


 彼もそっと腕を回して彼女を包み込んでくれる。そのせいで彼の胸板にぎゅっと顔が押し付けられる形になった。すると、彼の心臓もどくどく脈打っているのが分かる。お互い緊張しているのは本当だ。鼓動の早さが全てを物語っている。


「すごいドキドキしてる……」


「私も緊張してると言っただろう?」


「ええ……」


「私に全てを任せてなんて格好いいことは言えないけど、朝まで一緒にいてくれるかい?」


「はい、どこまでも」


 ギルバートはふっと笑うと、おずおずと彼女の唇に自分のを合わせた。そして、昼間の時のように、だんだんと深いところへ分け入っていく。初めてではないが、簡単になれるものでもない。心臓が破裂するんじゃないかと思うほどにドクドク響くが、この瞬間を絶対手放したくないと必死にしがみついていた。


 その夜、ギルバートは、イヴォンヌを朝まで離さなかった。


 


 


 

 

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