第24話 獅子の目覚め

 イヴォンヌとギルバートを乗せた馬は、交通量の多い中心部を避け、人気のない郊外の道を軽快に走っていた。イヴォンヌは横乗りする形でギルバートの懐にすっぽりと収まり彼にしがみつく。


 彼とこんなに体を密着させたのは初めてだ。ふんわり感じる人の温もり、微かに感じるムスクの香り、がっちりした厚い胸板。これがギルバートという人なのかと新鮮な驚きを持って受け止める。


 現実はまだ不安定な状況なのに、ずっとこのままでいたい、このまま彼と一緒に馬に乗っていたいとすら思っていた。


 ギルバートは厳しい顔でまっすぐ前を向き、一言も言葉を交わすことはない。まだ気を緩めていい段階ではないからだろう。それでも十分だ。彼と一緒にいれば何も怖くない。


 何より、まるで大切な宝物を守るかのように、ギルバートが体ごとイヴォンヌを包み込んでくれることがこの上もなく嬉しい。


 夢見心地のままあっという間にサッカレー邸に到着した。ほんの数週間しか空いていないのに、ずいぶん久しぶりに戻った心地がする。


 ギルバートは門をくぐると減速し、玄関の前でイヴォンヌを下ろした。馬丁に馬を渡し一緒に中に入る。そこには憔悴しきったルーシーとファーガソン夫人が待ち構えていた。二人は、イヴォンヌの髪がほどけてるのを見て顔色を変えた。


「イヴォンヌ様! そのお姿は!?」


「大丈夫、ちょっと揉み合いになっただけ。それよりルーシー、やっぱりあなたが知らせてくれたのね!」


 ルーシーはイヴォンヌの元に駆け寄り、二人はひしっと抱き合った。


「コリンズと聞いてピンと来ました。あの家に来る連中の中でもとりわけひどい輩です。使用人に手を出して妊娠させたこともあるし、廊下で見かけただけのイヴォンヌ様に一目惚れした話も聞いてました。だから、一刻も早く旦那様に知らせたんです。何も告げずに飛び出してすいませんでした。イヴォンヌ様の身に何かあったらと生きた心地がしなくて」


 ルーシーは涙をはらはらと流し、何度も謝罪の言葉を口にした。イヴォンヌはそんな彼女の背中を何度も優しくさする。


「ありがとう、あなたのおかげよ」


「お礼を言われる資格なんてありません。裏切った罪がこれで贖えるとは思ってません。もうお仕えする資格は――」


「何言ってるの? クロエに陥れられただけじゃない? あんなの裏切りでも何でもないわ。あなたが最近元気ないと気づいていたのに、何ヶ月も放ったらかしにしてしまった。私の責任でもある、無理を言ってでもサリーと引き離さなければよかった」


「サリー嬢もカスバート邸からこっちに呼び寄せているから心配しなくていい。じきに会えるよ」


 ギルバートの言葉を聞いたルーシーは、涙まみれの顔をぱっと輝かせ、すがりつく勢いでお礼を言った。もうそこまで手を回していたとは。素早い機転と行動力にイヴォンヌは舌を巻いた。


「ゆっくりしてる暇はない。私はさっきの場所に戻る」


「ええ! どうしてですか?」


「ファーガソンとアーサー・サリバンに任せきりにはできない。私が直接行く必要がある。二度とあの輩に好き勝手させないためにここできっちり落とし前をつけないと」


 ギルバートの口調はいつもと変わりないが、混じり気のない怒りを秘めているのがイヴォンヌには分かった。物静かで優しげな紳士はもういない。険しい顔つきで鋭い視線をぎらつかせる姿は、まるで眠れる獅子が目を覚ましたかのようだ。かつては、こんな風に戦場を駆け巡っていたのだろうか。


「でも、腕っぷしの強い者もいますし、あなたの身に何かあったら……」


「私を誰だと思ってるんだい? それにファーガソンもアーサーも元軍人だ。ごろつき供はとっくに成敗されてるよ。ただ、ここで主犯を逃したら意味がない。クロエ夫人とコリンズは、やったことの報いをきっちり受けてもらう。こんなことは二度とごめんだ」


 そう言うと、ギルバートは眉間に深いしわを寄せた。


「ごめんなさい、厄介ごとばかり持ち込んでしまって。私の力ではどうにもできない……」


「妻が困っていたら夫が協力するのは当然だろう? 何を遠慮することがある? それに私だって、あんな連中を野放しにしたら気が休まらない。夫婦の邪魔をする奴は許さない」


 え? 今夫婦って言った? イヴォンヌは目をぱちくりさせた。私たちはこれからも夫婦関係を継続できるのか……もしそうなら……イヴォンヌの心の奥底に未来の希望めいたものが湧いてきた。


「あの、先日は家を出て行って……」


「その話は後だ。今やらなければいけないことをしよう。そういう訳で、またいなくなるけど必ず戻るから。話はその時に」


「は、はい」


 イヴォンヌはうわずった声で返事した。ギルバートはこんな人だったかしら? 若々しいエネルギーはどこから湧いたのだろう? 自分は今まで何を見ていたんだろうという気持ちになる。


「さ、さ、奥様。体をお清めになってゆっくり休んでください」


 ギルバートを見送った後、ファーガソン夫人がイヴォンヌのところにやって来た。ルーシーは、今は休息が必要なので、身の回りのことはファーガソン夫人がやってくれることになった。


「悪いわね。ファーガソンにも骨を折らせてしまって」


「ここずっと体がなまってたからちょうどよかったんですよ。久しぶりに腕が鳴ったんじゃないですか? ああ見えて軍人時代が長かったから、今の生活は退屈してたと思いますよ」


「そんなものかしら?」


「それに、あんなに生き生きするご主人様を見たのも久しぶりです。クララ様がお亡くなりになって初めてじゃないかしら? 元々はああいう方だったんですよ」


 あれが本来の姿だと言われてもにわかに信じがたい。イヴォンヌは、かすかに微笑むファーガソン夫人の顔をまじまじと見た。


「さあさあ、湯浴みの準備が整いました。ゆっくりお入りください」


 温かい湯に浸かり、湯気の中で気持ちがほぐれると同時に涙が出てくる。数週間とは言え、この家を空けるのは辛かった。ギルバートと顔を合わせる方が辛くなったから出て行ったのだが、何てバカなことをしたのだろうと今になって思う。彼を嫌いになれるはずがないのに。


 ファーガソン夫人に背中を流してもらい、湯から出ると、今度は温かい食事が待っていた。


「お疲れでしょうから今日はお部屋でお召し上がりください。ご主人様なら大丈夫ですよ。四方を敵に囲まれた状態でも部隊を守りきった伝説の持ち主ですから。これしき赤子の手をひねるくらい簡単なことです」


「それ、本当の話なの?」


「ええ、今度ご本人から聞いてみては?」


 色んなギルバートの顔が見えてくる。イヴォンヌは出された食事を平らげながら、ギルバートの若い頃を想像した。もしかして、ここから二人の関係は進展するのだろうか? もう終わりだと思ってたところに新しい突破口ができたのだろうか?


 その答えは、翌日になって判明した。その晩ぐっすり眠ったイヴォンヌは、翌朝ギルバートが帰ってきていると聞いて、真っ先に彼の部屋に向かった。


「ご主人様もお待ちですよ」


 ファーガソン夫人に言われ、朝の準備もそこそこに飛んでゆく。部屋のドアを開けると、前日の疲れを感じさせずきびきびと動くギルバートがいた。


「あの……お帰りなさいませ。昨日は――」


  しかし、最後まで言葉を言うことができなかった。彼はイヴォンヌを目にした途端、強い力で抱きしめてきたからだ。

 

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