第26話 新しい日々

 イヴォンヌがサッカレー邸に帰ってきたと聞き、早速スタンレー夫人が訪問に来た。家を出た時は誰にも説明していかなかったので、随分心配をかけてしまっただろう。あの時は無我夢中だったが、今になり申し訳なさで身が縮む。


「よかったわ、またお会いできて。一時はどうなることかと思ったもの。ギルに聞いても何も教えてくれないし」


「心配をかけてごめんなさい。後先考えず逃げてしまったんです。本当に色々あって何から話せばいいか……」


 イヴォンヌは、スタンレー夫人に全てを話すことにした。白い結婚を始めるきっかけからだ。当然、スタンレー夫人は大層驚いた。純粋にギルバートの再婚を喜んでいた彼女は、まさか裏でそんな取り引きがされていることなど想像しなかったのだ。 


「最初は純粋な騎士道精神から引き取ってくれたんです。でも、私ったら本当に彼を好きになってしまいました。だんだん自分の心に嘘がつけなくなって、我慢できずに気持ちをぶつけたんです。そしたら拒まれてしまい、いたたまれなくなって家を飛び出したというのが真相です」


「そうだったの……。私何も知らなかったわ。本当は色々辛い思いを抱えていたのね。気づいてあげられなくてごめんなさい」


「いいえ……! どうか謝らないでください! これは私たちの問題ですから……」


 どこまでも優しいスタンレー夫人は、こんな時でも自分の至らなさに言及してくれるが、そんなことを言われたら恐縮してしまう。夫人には一貫して感謝の気持ちしかない。


「前にあなたと一緒の時にクロエ夫人に会ったけど、確かにいい印象はなかったわ。でも、想像以上にひどい仕打ちを受けていたのね。年齢より大人びた印象があったのはそのせいかも」


「でも、皮肉なことに、私たちの縁を取り持ってくれたのは義母ということになるんです。本人が意図したものじゃないと思うけど」


 イヴォンヌは苦笑しながら言ったが、スタンレー夫人は真面目ぶった態度で答えた。


「何言ってるのよ? あなたにもしものことがあったら笑いごとじゃなかったわよ? コリンズという男は、見た目は羽振りいいけど実際は借金持ちだったらしいじゃないの。それに女癖も悪いらしいわよ。ギルが間に合って本当によかった」


 それは確かにその通りだ。あの時ギルバートたちが駆けつけてくれなかったら、コリンズはイヴォンヌを組み敷いていたに違いない。あと少しタイミングがずれていたらと思うと、今でもぞっとする。


「借金を背負っていたのはコリンズだけじゃないんです。義母もカードゲームで負けがかさみ、借金を抱えていたらしいです。それもあって私を結婚させたかったのかも。義母は逮捕されたし、オーガスタもあの家にはいられなくなるでしょう。私の前に姿を現さなければそれでいいです」


「あなたは本当にそれでいいの? もっと懲らしめてやりたいとは思わないの? 相手はそれだけのことをしたのよ?」


「私がうんと幸福になるのが最大の復讐だと思っています。それでいいんです。何か制裁をと考えたらまたつながりができてしまう。これ以上あの人たちと関わりたくないんです」


 まっすぐ前を見てきっぱりと言い切るイヴォンヌに、スタンレー夫人も微笑み返した。


「それもそうかもね。あなたにはこの家があるもの。ギルバートという家族も」


「そうです。こっちの方が私にとっては大事なんです」


 イヴォンヌは、パッと花が咲くような笑みをこぼした。いつも落ち着いている彼女にしては珍しい、年相応の表情だ。


「ちょっと聞いてもらえますか? 夫は私に気を遣って、クララ様の名前や話題を極力出さないようにしているように見えるんです。でも無理はしないでほしい。前にもクララ様の物を大量に処分したらしいですが、なるべく自然体でいてほしい。それにはどうすればいいですか?」


「あら、そうなの? うーん……難しい質問ね。ギルの気持ちも分かるし……。あのね、私とクララは学生時代からの親友だったという話はしたかしら?」


「そう言えば、前に聞いた気がします」


「ギルは私たちの共通の友人だったのよ。クララが呼んでたから私も彼をギルと呼ぶようになったの。そのうち二人は相愛の関係になり結婚したけど、残念ながら子供はできなかった。クララは子供好きだったから大層悩んでいたけど、ギルが多忙で家を空けがちだったことも影響してるのよ。軍人としても優秀だから引く手数多だったの。そのうちクララが病に倒れて、初めてギルは彼女との時間を取れなかったことを後悔した。軍を辞めて二人だけで過ごすようになったけど、その頃にはもう……。だから、彼が何年も立ち直れなかったのは無理もないと思う。でも、もう十分耐え忍んだ。あれだけ自分に厳しい彼が、過去を克服して未来に進むことを選んだのだから、それを尊重すればいいんじゃない?」


「本当にそれでいいのでしょうか?」


「相手を信じるというのは、その人の選択を尊重するということよ? たとえそれが自分の意に反しているとしても。私の言ってる意味分かる?」


「ええ……分かります」


 スタンレー夫人がふっと笑うと、イヴォンヌも表情を和らげた。胸につかえていたものが徐々に溶けていくのが分かる。


「ありがとうございます。よかった、あなたに相談して。これですっきりしました」


「どういたしまして。これからもよろしくね、イヴォンヌ」


 そう言って二人は立ち上がり、ハグをして変わらぬ友情を確かめ合った。


**********


 また、別の日には意外な客がやって来た。スチュワート・メレディスである。私は席を外そうか? とギルバートが気を利かせてくれたが、ぜひともお二人一緒でお願いしますと言ってきた。


「全てが終わってから事情を聞いたんですが、お見舞いをしようと思い参りました。ギルバートさんにお目にかかるのは初めてなんですが、その……その節は失礼しました!」


 地面に届かんばかりに頭を下げるスチュワートを、イヴォンヌは慌てて制止した。


「頭を下げるほどのことではありませんわ、どうかお直りください」


「アーサーから話は聞きました。我々の特別な事情をお知りになったにもかかわらず、口外しないでくれたことを感謝します」


 ギルバートの落ち着き払った、折り目正しい物腰に、スチュワートはすっかり圧倒されたようだ。驚きと畏敬のこもった目でギルバートを見つめた。


「今回の騒動も話を聞きました。父の盟友のサリバン氏もその場に居合わせたようで。まるで劇的な救出劇……。今だから白状しますけど、少し妬いちゃいました」


 そう言って微かに苦笑する。スチュワートもなかなか言うなとイヴォンヌも目を丸くした。


「もちろん、だからどうこうと言うわけではありません。ただ、お二人は結ばれるべくして成立したカップルなのだな、天がそう采配したのなら自分の出る幕なんてないなと思った次第です」


 スチュワートは恥ずかしそうに頭を掻いた。こういう謙虚なところが、皆から慕われる所以なのだろう。二人の素敵な人から同時に愛されるなんて、自分はなんて果報者だろうとイヴォンヌは密かに思った。


「君にもいつか運命の人が現れるよ、なんて大上段に振りかぶるつもりはない。ただ、私とイヴォンヌだって、決して運命の夫婦ではないと考えている。私はいつだって臆病で自分の殻から飛び出せなかった。そんな硬く閉ざされた扉を辛抱強く叩いてくれたのはイヴォンヌだったんだ。彼女が自分で道を切り開いた。彼女には頭が上がらないよ」


 ギルバートはそう言いながら、イヴォンヌに熱い視線を投げかけた。彼が、人前で妻に愛情表現をするタイプだったなんて。


 スチュワートはこの光景になす術もなく、うわずった声で「は、はい」と答えるのが精一杯だった。


 本人にとっては、真面目に答えたつもりなのだから尚更タチが悪い。イヴォンヌは、ギルバートの隣でこれ以上ないくらい赤面していた。


 単なる物静かなジェントルマンだけじゃない、自分の気持ちを積極的に発信する一面があったなんて。自分の知らない彼の顔がまだまだたくさんある。夫婦としてはまだスタートラインに立ったばかりなのだ。


 

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