第20話 両片思いの二人
病人のように床に伏せり、頭からすっぽり布団を被っていたイヴォンヌは、部屋の外で使用人がパタパタと動く音に気がついた。ギルバートが帰ってきたのだろうか、それにしては時間が早い気がする。上体を起こし時計で時刻を確認する。
さっきは、扉越しですら会話を交わすこともできず、ルーシーに伝言を頼んでしまった。どうしても昼間見たスケッチブックが脳裏をよぎる。彼は、どんな気持ちであれを描いていたのだろう。クロッキーで描かれた自分は、どこか艶かしかった。まさか、彼の目にはあんな風に映ったのだろうか?
そのうち、階段を騒々しく駆け上る音が聞こえてきた。ギルバートは普段こんな音を立てて移動しない。何かおかしいと思いかけた瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。ルーシーが止めるのも聞かず、ギルバートが飛び込んできたのだ。
「イヴォンヌ……! イヴォンヌ……ここにいたのか!」
「一体どうしたんですか? 何かあったんですか?」
ただならぬギルバートの剣幕に吊られて、イヴォンヌもがばっと飛び起きてしまった。髪を下ろし寝巻き姿だったが、今更取り繕えない。
それよりギルバートの様子が、そんなことはどうでもいいと言わんばかりの動揺ぶりだった。髪を振り乱し、びっしょり汗をかき、目を丸々と見開いている。彼がこんなに取り乱すなんて、のっぴきならないことが起きたに違いない。
ギルバートはベッドサイドまで駆け寄ると、イヴォンヌに目線を合わせて片膝をついた。
「君は、あの時の令嬢なのか? あの仮面舞踏会の?」
「どうしてそれを? 何があったんですか?」
「君の妹さんに会って、あの時と同じオレンジのドレスを着ていた」
やはりそうだったのだ。あの時の仮面の紳士はギルバートだったのだ。イヴォンヌは、全身の血流が逆流するような感覚に襲われ、雷に打たれたような衝撃に身を震わせた。
「やっぱり……あなただったのね? 結婚披露パーティーで踊った時初めてじゃない感覚がしたんです。やっぱりそうだったんだ……」
そこまで言うと、涙がポロポロとあふれ出した。全身を貫いていた氷の刃が一気に溶けてゆく。もう止められない。今まで押さえ込んでいた分、色んな感情がとめどなく噴き出した。
「あなたのことが好き……! 愛しています……! お願い、どうか本当の夫婦になってください!」
急にベッドから飛び出し、ギルバートの首に両手を回して抱きつく。そしてわんわんと声を上げて泣きじゃくった。こんなに派手に泣くのは子供の時以来だ。
意地もプライドもない。こんなに狂おしい衝動に突き動かされたのは生まれて初めてだった。ギルバートが好き。この人しかいない。
ギルバートは、そんな彼女の背中にほんの軽く手を添えた。彼女を慮ってのことだろうが、薄い布を一枚隔てたようなもどかしさを感じる。どうして遠慮がちなのだろう。もっと、息ができなくなるくらい抱きしめて欲しいのに――。
「イヴォンヌ、君はまだ若い。この先無限の未来が広がっている。まばゆいばかりの若さと可能性を持っているのに、私のそばにいるなんてもったいない。どうか分かっておくれ」
「まだそんなことをおっしゃるんですか……!」
「頼む、分かってくれ。一時の激情で重大な決断をするべきではない。君は私の中に父親の幻影を見ているのかもしれない。それは憧憬であって愛ではない――」
ギルバートは、どうしても目を合わせられず顔を背けながら言った。みるみるうちにイヴォンヌの血の気が引いていく。ギルバートから身を離すと、悄然として尋ねた。
「ごめんなさい――。最初からクララ様のことは分かっていたのに思い上がっていました。スケッチブックを偶然見たらつい舞い上がって……」
それを聞いたギルバートは耳まで真っ赤になり、ガバッと顔を上げた。おおよそ彼らしくない慌てぶりで、明らかに狼狽している。
「そ、それは……! すまない、紳士にあるまじき行いをしたと恥じている。許してくれ。本当に申し訳ない……」
余程恥ずかしかったのか、最後の方は消え入るような声だった。そして一旦言葉を切り、気を取り直して再度口を開く。
「私も苦しいんだ。自分のエゴを優先したら君を不幸にしてしまう。せめてあと十年若ければと何度も考えたよ。でも、それは無理な話なんだ」
「分かってます……。最初からそういう話だったって。こちらこそ押し付けがましいことを言ってごめんなさい……もういいです……」
さすがのイヴォンヌもここまで来ると観念した。もう終わりだ。真っ白な灰になった気分になり、全身の力が抜けそうになる。できることならこのまま消えてなくなりたい。でもそう言うわけにもいかず、床にへたり込んだまま、背中を震わせすすり泣くしかなかった。
(何をセンチメタルになってるの、全力でぶつかって粉々に砕けただけじゃない。あなたは負けたのよ。いさぎよく諦めなさい)
そのまま時が止まったかのように重い空気が垂れ込める。しばらくした後、ギルバートは何度もすまない、すまない……と繰り返しながら部屋を出て行ったが、それすらイヴォンヌは気づかなかった。
**********
ギルバートは自分の部屋に戻り、後ろ手で荒々しく扉を閉めた。そして椅子に座ると、骨が砕けそうな勢いで拳を机に叩きつけた。
(クソッ! あの時抱きしめられたらどんなによかっただろう!)
さっきイヴォンヌに抱きつかれた時、彼女のふんわりした香りと温もりに包まれ、理性が吹っ飛びそうになった。どれだけ胸に押し付けてかき抱きたかったか。それを超人的な自制心で押し留めたのだ。
彼女を自分のものにして誰にも触れさせたくない。今まで辛い思いをしてきた分、ありとあらゆる方法で幸せにしてやりたい。
でも、自分では駄目なのだ。彼女の隣に立つのは、もっと若くて、同じくらいに長生きできる者でないと。夫に先立たれ寡婦として長い時を過ごさせるなんてまかりならない。
思えばとっくに好きになっていた。あなたの名誉を回復したいのと奔走する彼女を見て嬉しかったこと、スチュワートに密かに嫉妬したこと、一心不乱に彼女の無垢な寝顔を描いていたこと。全てがつながっている。ただ認めたくなかっただけだ。
(私は卑怯な人間だ。自分の弱さから目を逸らしたくてクララを利用した。さっきはカスバート大佐の名前まで持ち出してイヴォンヌから逃げた。最低だ)
ギルバートはもう一度拳を叩きつけた。興奮しているせいか痛みも感じない。しばらく気が済むまで叩いていたが、やがて低い呻き声を上げて髪をかきむしり、机に突っ伏した。
(どうすればいい? 彼女に幸せになって欲しいが、私はそれを与えることができない。どんなに愛していても、一緒になったら不幸になってしまう。一体どうしろと言うんだ?)
いくら思い悩んでも答えは出てこない。結局、その日はほとんど眠れず、葛藤と後悔にのたうちまわりながら一晩を過ごした。
そして夜が明けてから、ファーガソンから驚くべき報告を受けた。イヴォンヌがルーシーだけを連れて家から出て行ったと言うのだ。
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