第19話 オレンジのドレス

 イヴォンヌは部屋にこもることが多くなった。食事を部屋まで届けに来させ、入浴や身の回りの世話はルーシーに任せてしまえば外に出る必要がない。しかし、さすがにルーシーが心配してあれこれ言ってきた。


「イヴォンヌ様、少しは外の空気を吸ってください。このままじゃ本当に病気になってしまいますよ」


「それならあなたの方が元気がないじゃない? 確か結婚披露パーティーの後から様子が変わったような気がするけど、一体どうしたの?」


 自分のことを指摘されたルーシーは、体をビクッとさせ怯えるような表情を浮かべた。いつも冷静沈着な彼女にしては珍しい。さしものルーシーも、新しい環境にまだ慣れてないのだろうか。


「いえ、何でもありません。ちょっと疲れが溜まってるだけです」


「ここのお屋敷の使用人仲間と馴染めないとか?」


「そんなことはありません。ファーガソン夫妻を始め、みなさん温かい方ばかりです」


「何かあったら私のところに相談してね。ちゃんと話を聞くから」


「ありがとうございます。イヴォンヌ様こそ大変な状況なのに、却ってお気遣いさせて申し訳ありません」


 こうしてる間も、ギルバートは朝と寝る前の一日二回、律儀にイヴォンヌの部屋の前に立ち声がけをしていた。ただ一言「おはよう、調子はどうだい?」「明日は会えると嬉しい。じゃおやすみ」とごく簡単なものだったが、その度にイヴォンヌの胸を締め付けた。怒っているわけではない。むしろ、顔を見たら気持ちが暴走してしまいそうで、どうすることもできなかった。


「イヴォンヌ様、今日はご主人様はご不在のようですよ。何でも、退役軍人の集まりがあるそうで」


 そんなある日、ルーシーがいいことを教えてくれた。彼がいない間なら外に出ても平気かも。このままだとずっと外に出られなくなりそうで、イヴォンヌは思い切って部屋を出た。久しぶりに歩く外の世界はいつもより眩しく感じる。うーんと背伸びをして、凝り固まった筋肉をほぐす。


「おや、奥様。今日はお加減がよろしいのですか? それはよろしゅうございました」


 久しぶりにファーガソン夫人に会う。彼女ならイヴォンヌとギルバートの間に起きたことを知っていても不思議ではないが、いつもと変わらぬ柔らかい調子で話しかけてきた。


「心配をかけてしまってごめんなさい。どうやらストールを温室に忘れたみたいなの。取りに行ってもいいかしら?」


「それなら夫が鍵を持っていますので、言ってきます」


 本当はストールなんてどうでもよかったが、どちらかと言うと温室に行く口実を作りたい気持ちだった。そんな小細工をしなくてもここの使用人たちは何とも思わないだろうが、まだ彼女の中に遠慮めいたものがあったのだ。


 ファーガソンから鍵を借りて、イヴォンヌは温室の中へと入った。そんなに日にちは経っていないのに、ずいぶん久しぶりに来た心地がする。この地域では見かけない形をした植物を見ていると気が紛れる。ギルバートが出張に行くたびにこまめに収集したんだろうななどと考えながら、陽の光を凝集したような温室の空気をめいいっぱい吸い込んだ。


 やがて、視線の先に画板に立てかけたままの、描きかけのキャンバスが目に入った。まだ未完成だが、きっとこれもクララなのだろう。キャンバスの前に立つ人影がないことが、たまらなく寂しく感じられた。


 いつものベンチに腰掛ける。当然、何の音も聞こえず静けさに包まれたまま。しばらく辺りを見渡しながら静寂を楽しんでいたが、ふと、一冊のスケッチブックが目に留まった。スケッチブックがあるのは知っていたが、いつもの場所とは違うところにあったので違和感を覚える。何の気なしにそれを手に取り、パラパラとめくってみると、思わぬものを目にして愕然とした。


「こ、これは……私?」


 目に飛び込んできたのは、クロッキーの荒々しいタッチで描かれたイヴォンヌだった。長いまつ毛を伏せわずかに口角を上げて静かにまどろむ寝顔は、自分が見てもどこか艶めかしく写る。仰向けだったり横顔だったり、あらゆる角度からイヴォンヌが描写され、自分すら知らない自分に戸惑いを隠せなかった。


 いつの間にかギルバートは、クララではなく自分を描いていたというのか? それも昼寝している隙にこっそりと? イヴォンヌは頭が真っ白になったまま、その場に固まっていた。


**********


 イヴォンヌと一緒に出るつもりで、とあるパーティーに参加すると言ってしまったことをギルバートは後悔していた。出席を伝えた時は、まさかこんな事態になるなんて予想しなかったのだ。


 ギルバートだけなら後から欠席に変えてもいいのだが、あいにく今夜は断りにくい相手だった。ずっと引きこもっていた頃なら相手に頓着せず断っていただろうが、徐々に社会性を取り戻しつつある今は多少気まずい気持ちも芽生えてきたのだ。


 どうせ出る気はないだろうと思いながらも、ギルバートはイヴォンヌに意思を確かめに行った。いつものように部屋のドアの前に立って声をかけるが、返事が返ってこない。もしや寝ているのか? と思っていたら、背後からルーシーに声をかけられた。


「イヴォンヌ様は欠席されるとのことです。ご主人様にお伝えするよう申しつけられました」


「そうか……ありがとう」


 とうとう、自分と言葉を交わすのも嫌になってしまったのかと残念に思いながら、ギルバートは馬車に乗り込んだ。


 こうなるのも無理はない。自分は彼女から逃げてしまった。ファーガソンから「自分の気持ちに向き合え」と助言されたが、いまだにどうすればいいか分からない。いたずらに時間が過ぎれば彼女の心をより傷つけるだけと言うのに。


 会場に着き、招待主の旧友に挨拶する。彼としては、夫婦そろったところを見たかったのか、がっかりした顔をされてしまった。


「おや、今日は奥さんは一緒じゃないのかい?」


「ちょっと具合が悪くてね、いやなに大したもんじゃないよ」


 声をかけられても生返事しかできないのがもどかしい。そういや最近、自分について面白おかしく囃し立てる者がいなくなった。イヴォンヌが企画した結婚披露パーティーで変な噂を払拭したせいだろう。それなのに、二人の関係は風前の灯火となっている。


 内心忸怩たる思いを抱えながらやり過ごしていたら、意外な人物に遭遇した。クロエとオーガスタだ。イヴォンヌを金と引き換えに嫁がせておいて随分と豪奢な装いだ。ギルバートは、自分でも気付かぬうちに顔をしかめていた。


「あら、ギルバートさんお久しぶり。今日は、イヴォンヌは一緒じゃないんです?」


「お久しぶりです。妻は、今日は体調が優れなくて家で休んでいます」


「元気でやってるか心配してたのよ。たまにはうちにも顔を出すように言ってくださいな」


 クロエはそう言うと、優雅な手つきで扇をあおいだ。どうもこの夫人は苦手だ。一見上品ぶっているが、隠しても滲み出る卑しさを感じてしまう。義理の親子と言うがイヴォンヌとは似ても似つかない。馬が合わないのもむべなるかな。


 ギルバートは曖昧な笑みを浮かべてその場をごまかしていたが、傍にいるオーガスタを見て目が点になった。正確には、オーガスタの着ているドレスに目が離せなくなったのだ。


 目にも鮮やかなオレンジのドレス。ギルバートは、前にもそのドレスを見たことがあった。そして、そのドレスを着た人物と踊った。彼女は、黒髪でオーガスタよりも華奢で可憐だった――。


「あの……すいません。つかぬことをお伺いしますが、娘さんの着ているドレスはどこで購入したものですか? いやその、素敵なデザインだなと思って、妻にどうかなと……」


「あらいやだ。うちはオートクチュールしか着ませんわ。既製品じゃ体にフィットしませんもの」


 クロエはやや気分を害したような口調で答えた。貴族たるもの既製品なんか着てたまるかとでも言いたげである。しかし、ギルバートはそんなことはどうでもよかった。


「用事を思い出したのでこれで失礼します。次お会いする時はイヴォンヌとお邪魔するので」


 挨拶もそこそこに会場を後にする。馬車に乗り込み、御者にすぐに家に戻るように告げた。馬車に揺られながら、誰もいないのをいいことに、手で顔を覆い低いうめき声を上げる。帰ったらすぐに本人に確認しなければ。


(さっきの娘が着ていたドレスは、仮面舞踏会で出会ったお嬢さんが着ていたのと同じものだ。イヴォンヌは義妹のドレスで舞踏会に出たと言っていた。まさか、彼女がイヴォンヌだったのか? 私は前に彼女と会っていたということか? まさか、こんな偶然があってたまるものか!)

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