第18話 不惑もとうに過ぎたのに
おかしい。帰りの馬車の様子が何だかおかしいのだ。せまい車内にギルバートと二人きり。一見いつもと同じなのだが、変に重苦しい感じがする。ギルバートの態度はいつもと変わらず、いや、同じでいようと努力しているように見える。
彼は、窓枠に頬杖をついてイヴォンヌから顔を逸らし、長い足を組んでいた。それ以外は普通なのだが、普段はもっときちんとした姿勢を保持していることを考えると、やはり何かおかしいと思わざるを得ない。
そんな釈然としない気持ちを抱えたまま家に戻る。そして自分の部屋へ戻ろうとしたその時。
「イヴォンヌ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
いつもと違う流れになって、イヴォンヌは目を丸くした。彼から聞きたいことがあるなんて珍しい。しかも、ごくわずかではあるが、口調に棘がある気がする。彼女はゆっくりと彼の方に振り返った。
「フレデリカ……スタンレー夫人が見たと言うんだが、さっきスチュワート・メレディスに会ってたんだって?」
さっきの場面を見られていたというのか。別にやましいことは何もないが、イヴォンヌは驚きを隠せなかった。
「白い結婚とは言え、夫以外の男性と二人きりで会うのはその……周りの目もあるから気をつけた方がいい」
ギルバートがこのようなことを言うとは思わなかった。いつどんな時も、イヴォンヌを否定することはなかったのに。しかも、どこか険のある言い方だ。
「前に言ったことと矛盾してるじゃありませんか? こないだはスチュワートとお似合いだとおっしゃったのに?」
「そんな言い方はしてない。自分のような老いぼれは不適切なんじゃないかと言ったんだ。一体彼とどんな話をしたんだい?」
「彼に言い寄られたと言ったらどうします?」
「言い寄られた……って、やっぱりそうなのか?」
ギルバートは、平静を装うとしているが当惑を隠せない様子だった。どうして戸惑うの? 本当にどうでもいいのなら、そもそも興味も持たないはずなのに?
ふと、彼を試したい衝動がイヴォンヌの中に芽生えたが、やめようと思い直した。騙すようなことはしたくない。
「別に言い寄られてはいません。白い結婚について説明しただけです」
それでもギルバートの表情は晴れることはない。何を心配しているのだろうか? 皆目見当がつかない。
「ただ、私のことは好きだったみたいです。それでも彼は紳士的でした。私の説明に対して冷静に聞いてくれました」
「そうか。そうだったのか……。いや、色々心配してしまって」
「心配って何を?」
イヴォンヌの質問に、ギルバートは珍しくも口ごもった。歴戦をくぐり抜けた元軍人が、小娘一人にあたふたさせられているなんて珍しい光景だ。
「そ、その……君の意思が強ければ私は何も言うことはない。ただ、スチュワート・メレディスが本当にふさわしい人間なのか見届けないとと思って……」
「私と彼をくっつけたいと、そうおっしゃるのですか?」
「そうじゃないよ! ただ、私では君の望むものを与えられない。白い結婚ではない、ごく普通の夫婦関係。年齢財産人格どれも申し分なく、君を安心して任せられるだけの相手が出てくれば、いつでも身を引く覚悟はできていた」
「まだそんなことを言ってる!」
「自ら命を断つ勇気も持てずにだらだら過ごしてきた身だ。誰かの役に立てるなら嬉しいことこの上ない。こちらこそ、生きる目的をくれた君に感謝したいくらいだ」
イヴォンヌは、腹の底からむしゃくしゃしてどうしようもない気持ちに駆られた。この感情の正体は何だろう。怒り? 悔しさ? 悲しみ? その全て? 気付くと、自分でもびっくりするようなことを口走っていた。
「私と本当の夫婦になる気はないのですか! あなたはいつまで過去に囚われているのですか!」
発言してからはっと我に返る。何てことを言ってしまったんだ! かーっと顔が火照って耳まで真っ赤になった。
びっくりしたのはギルバートも同様らしく、同じように言葉を失い黙りこくる。沈黙が気まずい。何か言わないと……イヴォンヌは必死に頭を巡らせて言葉を絞り出した。
「今言ったのはその……ごめんなさい……決してあなたを否定するつもりは…………でも嘘偽りはございません。私のことは正直どう思ってますか?」
そうだ。彼にずっと聞きたかったのはこれだ。心の中はなおも嵐で荒れ狂っているが、やっと言いたいことを言えた気がする。
しかし、ギルバートは視線を床に落とし、暗い表情になった。
「…………親愛の情は確かにある。だが、男女の性愛となると話は別だ。第一、私たちはいくつ離れている? 30歳だよ!? まるで親子じゃないか! こんな老人に前途ある未来を託していいのか?」
「30歳が何ですか? 歳の差なんて関係ないじゃありませんか! 大事なのは私とあなたの気持ちだけです!」
それを聞いたギルバートは、顔を上げ眩しそうにイヴォンヌを見つめた。どうして彼は、ここでそんな顔をするのだろう。
「君は若いな。いや、バカにしてるんじゃない、感心しているんだよ。どんな障害も跳ね返す決断力と行動力を持っている。私もそんな時代があったはずなんだが、今はすっかり弱り切ってしまった。体だけじゃない。長い時間を重ねるうちに心に無数のすり傷ができて最早再生不可能なんだよ。やはり、君は若くて立派な青年と一緒になった方がいい。その方が幸せになれる」
「つまり、私のことは娘にしか見えないってことですか? これだけ年の差があると異性としては見れないと?」
自分が面倒くさい女だということは自覚している。だが、ここで食い下がらないと一生後悔する気がする。これに対し、ギルバートはイエスともノーとも言わず、ためらった表情をにじませた。
「この話は後日改めてしよう。少し時間をおいて考えた方がいい。私も君も。ずっと話しているとヒートアップしてよくない」
そう言うと、ギルバートは話を途中で切り上げて自分の部屋に帰ってしまった。ここまで食い下がってもダメなの? どう頑張っても、彼を変えることはできないの? 彼女は、その場にうずくまってさめざめと泣くしかなかった。
**********
ギルバートは、ここ最近すっかり温室から足が遠のき、自室で考え事をすることが多くなった。
自分の選択が誤っているとは思えない。それなのに、どうしてイヴォンヌは自分を責めるのだろう? どうして自分でも気分がモヤモヤするのだろう?
第一、自分ではイヴォンヌが満足する役割を果たせないではないか。一緒にいられる期間は短いし、介護で手を煩わせるのも不憫だし、どう考えても足手まといにしかならない。それに――これが一番大きいが、30も年が離れている相手を好きになるなんてあり得ない。前途ある若い女性が、人生後半戦の男を愛するなんて。
(本当の夫婦生活とか、そんなのが許されるわけないだろう? 恩人のお嬢さんなんだぞ。こんなところで人生を棒に振ってはいけない。なぜそれを分かってくれない?)
どれだけ考えても堂々巡りになってしまう。自分の中にしまっておくには限界だと思ったところで部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「どうしました? あまりに様子がおかしいのでお声がけさせていただいたのですが」
部屋に何日も閉じこもる主人を見かねて、ファーガソンが声をかけに来たのだ。夫婦揃って部屋に引きこもったという異常事態に使用人が気づかないはずがない。こんな時、いつもお伺いに参じるのはファーガソンと決まっている。
「ああ、心配かけてすまない。正直、どうしていいか分からない。こんなこと打ち明けられるのはお前だけだよ」
「イヴォンヌ様と喧嘩をしている様子はなかったですが、一体何があったのですか?」
「なぜイヴォンヌが関係しているのが分かった?」
「あちらもしばらく部屋から姿を見せませんし、ご主人様がこれだけ深く悩むことと言えば決まっているではないですか」
それを聞いたギルバートは、ああ……と低くうめいた。そうか、イヴォンヌも気落ちしたまなのか。
「もったいぶらずにこのファーガソンにお話しください。あなたはご自身のことに無頓着すぎるきらいがあります」
軍隊時代からの仲のため、いざという時は遠慮のない執事であった。ギルバートとしても、こんなことを相談できる相手はファーガソンしかいない。しばらく逡巡したのち、ため息をつきながら彼女とのやり取りを説明した。
「何と……イヴォンヌ様は本当の夫婦になりたいと、そうおっしゃられたのですか?」
「そうなんだ。信じられるか? このおいぼれとだよ? 30も離れた老人が若い娘の将来を奪う権利なんてないじゃないか。適当な若者が現れたら喜んで身を引くつもりでいた。その方が彼女にも感謝されると思っていたのに」
「あなたは、常日頃からご自身を老人と呼んでますが、ただの誇張だと思っていました。そうではなかったのですね」
「そのままの意味さ。体も心もボロボロにすり減っている。恋愛は若くて将来のある者の特権だよ。自分にはすっかり無縁のものだ。おまけに……」
ギルバートは、つい口が滑って要らぬことを言いそうになったと口を押さえた。しかし、それを見逃すファーガソンではない。
「おまけに、どうしました?」
「やれやれ勘弁してくれよ……。イメルダには内緒だぞ」
「このファーガソン。口の硬さにかけては右に出る者はおりません」
イメルダとはファーガソン夫人のことである。真面目な口調で、かしこまって言うファーガソンを見て、ギルバートはやれやれとため息をついた。
「この年になって若者に嫉妬したんだよ、この私が。イヴォンヌがメレディスの息子と二人きりで話をしていたと聞いた時、私の胸に去来したモヤモヤ感は確かに嫉妬と名付けるべきものだった。自分でも信じられないよ。すっかり枯れ果てたと思っていたのに」
「ご自身から目を逸らさず自己分析なさるのはさすがでございます。結構なことではありませんか」
「何が結構なものか。私にはクララがいるのに……」
「ここでクララ様を引き合いに出すのはずるいですよ。自分の都合のために死人を利用するのは恥ずべき行為です。あなたご自身がどうしたいかというのが大事なのでは?」
ファーガソンの容赦ない指摘にギルバートははっと息を飲んだ。確かにその通りだ。クララにも申し訳ない。ギルバートは苦しげに眉間にしわを寄せた。
「分からないからこうして逃げている。ははは、無様だな。これじゃ青二歳と変わらないじゃないか。彼女を傷つけたくはない。どうせ一時の気の迷いだとは思う。こんなところで道を踏み外してもらいたくないんだ」
「自分の感情を抑えて自制的に振る舞うように軍隊時代に訓練されたから、今でも自然にそうなってしまう。当時は長所でしたが今はむしろマイナスですよ」
「……なかなか辛辣だな」
「あなたとの付き合いも30年くらいになりますからどうかお許しください。とにかく、年齢のことを言い訳にせず、もう一度イヴォンヌ様並びに、ご自身の気持ちと向き合われることをお勧めします。あなたはどうしたいのか、それが一番大事かと思われます」
ファーガソンの言葉をギルバートはじっと聞いていた。長い付き合いだけあって、事の本質をよく見ている。何かと理由をつけて逃げているのは自分の方だ。これでは誠実な態度とは言えないだろう。
「分かった。話を聞いてくれてありがとう。私にここまでズバリ言ってくれるのはお前だけだ。いい友を持った。もちろん執事としても信頼している。これからもどうか頼む」
ファーガソンは一礼をしてからギルバートの部屋を出て行った。誰もいなくなったところで深々とため息をつきながら一人呟く。
「やれやれ。これだから嫌いになれないんだ。全く手のかかる主人だよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます