第17話 これが恋なの?

(やってしまった……! お世話になってばかりなのに、あんな当てつけみたいなこと!)


 自分の部屋に戻ってから、イヴォンヌはベッドに突っ伏して足をジタバタさせた。何もかも自分が悪い。彼は彼なりにイヴォンヌを思って言ってくれたのだろう。だが、急に捨てられたみたいで胸が苦しくなったのは事実だ。


(やっぱり彼にとって私は邪魔だったのだろうか。そりゃそうよね。元々クララ様がいれば十分だったんだから。私のことは昔のよしみで同情して引き取ってくれただけ)


 何を勘違いしていたんだろう。いつの間にか、ギルバートに必要とされないことを物足りなく感じるようになっていた。彼が優しいばかりにどんどん甘えていた自分が恥ずかしい。


 それでも、半年近く一つ屋根の下に暮らしたことで、絆のようなものが生まれたと勝手に認識していた。しかし、それはイヴォンヌだけだったのだ。なぜかそのことが、ものすごく寂しいことのように思われた。


(何がっかりしてるのよ。今までずっと一人だったじゃない)


 結局結婚しても孤独なのだ。イヴォンヌの名誉のために白い結婚を提案してくれたのは感謝しているが、最早それだけでは満足できなくなってしまった。自分の殻を突き破ってでも、ギルバートとの関係を進展させたい。いつの間にか、そんな欲望が彼女の中に生まれていた。


「もしかして、好きになってしまったってこと!? 好きってこういうことなの?」


 思わず声に出してひとりごちる。それくらい彼女にとっては大きすぎる発見だった。

 

 今まで蓋をしていた感情が、抑え込んでいた反動で一気にぶわっと噴き出す。


 どうしよう、好きってこういうことだったんだ。単に感謝してるとか好感を持つとか、綺麗な気持ちだけじゃなくて、汚くてドロドロした感情もまた愛なんだ。すでに亡くなった人に彼の心が囚われているなんて許せないと思う自分がいる。彼が自分のものになって欲しいし、彼も自分を求めて欲しい。心の奥底から湧き出る焦燥感をイヴォンヌはどうすることすることもできなかった。


「どうしよう、私、どんな顔でギルバート様に会えばいいのだろう?」


 気持ちがぐちゃぐちゃになって部屋の中を歩き回ったが、それくらいで治まるものではなかった。感情の制御ができずぶわっと泣きたくなる。何度も深呼吸してやっとのことで気持ちを抑えこんだ。


「こんなところで戸惑ってる場合じゃない。まだ何にも始まっちゃいないじゃない。慌てちゃ駄目よ、イヴォンヌ」


 イヴォンヌは、周りに誰もいないのをいいことに、声に出して自分自身を励ました。


**********


 数日後、どうしても断れないお呼ばれに夫婦で参加した。しかし、二人の間は薄い壁ができたかのように距離があり、雰囲気もどこかぎごちない。同じ場に居合わせたスタンレー夫人は、鋭い観察力で微かな異変を感じ取ったようだ。


「どうしたの? 今日は何かよそよそしいわね。夫婦喧嘩でもしたの? 珍しいじゃない」

 

 スタンレー夫人に声をかけられてイヴォンヌは曖昧な笑みを浮かべた。もちろん、二人の間に何があったか夫人は想像もできないだろう。


 こんな時、どう答えていいのやら分からず困ってしまったが、隣のギルバートを見ると涼しい顔をしていたので、やはり人生経験の差が物を言うのかしらなどと考えた。


(それとも、私のことなんて何とも思ってないからポーカーフェイスができるのかしら?)


 いけないいけない。公の場でで考えごとをしているどころではない。しかも、スタンレー夫人がそばにいるのだ。


「そうかな? いつも通りのつもりだが、そう見える?」


「女の勘を舐めてもらっちゃ困るわ。私、間諜に向いてるんじゃないかと思うの。夫に相談したら笑われたけど、結構いい線行くんじゃないかしら」


 それを聞いたギルバートは朗らかに笑った。全く、大したタヌキぶりである。イヴォンヌは感心するやら少し呆れるやらだった。


「あの、私、お腹すいちゃって、ちょっと軽食取ってきますね」


 イヴォンヌは、何となくこの場にいるのがいたたまれなくなって、適当な理由を言って離れた。ギルバートのスマートな切り返しと比べると、実に見え透いた口実である。普段取り繕っていても、いざという時には何もできないんだなと自嘲したくなる。


 彼らの目の届かない場所まで来てやっと一息ついたと思ったら、今度は別の人物に声をかけられた。その人物を見た瞬間、はっと息を飲んだ。


「スチュワートさん! あなたも来てたんですか!」


「あなた方がいらっしゃると聞いて、都合を合わせました。その、お話ししたいことがあって」


 まさか、夫婦の溝を作った張本人もここに来ているとは。ある意味、今一番会いたくない人物と言っても過言ではない。どうして声をかけてきたのだろう?


「私はありませんわ! 大体何のつもりなんです? 既婚者を口説くなんて!」


「お怒りになるのもごもっともです。父のしたことを謝りたくて来ました。どうか別の場所で話を聞いてもらえませんか?」


 スチュワートの表情は余裕がなく、切羽詰まっているように見える。彼は彼で、この状況をまずいと思ってるのだろうか。そういうことならば……と、イヴォンヌは彼の後に着いて行った。


 人気のない庭に出るとあずまやが目に入り、そこのベンチに腰を下ろす。スチュワートにも座らないかと声をかけたが、彼の方は立ったままだった。


「それで、いったい何ですの? 話したいことって?」


「あなた方の事情を図らずも知ってしまいました。もちろん他言するつもりはありません。デリケートな話に首を突っ込む形になってしまい申し訳ありません……」


 白い結婚のことだ。イヴォンヌはさっと顔が青ざめた。


「『白い結婚』のことですね。それを聞いて、正直どう思いました?」


「……親子喧嘩の背景が分かった気がしました。ずっと実家で辛い思いをして、お義母さんに売られそうになったんですね? そんな時サッカレー氏が現れたと」


「そうなんです。彼は父の部下だったんです。その恩義があって、娘の私に手を差し伸べてくれました。でも、これは慈善事業だから実質的な夫婦関係はなくて」


 どうしてだろう。スチュワートに対する怒りはいつのまにか消え失せ、絶対に秘密にしなければと思っていたことをベラベラと喋ってしまう。スタンレー夫人にも打ち明けたことないのに。


「なるほど。確かに立派な行いだ。もしかして、それで彼を本当に好きになったとか……?」


「え、ええ……そうです」


 ここまでバレてしまったら仕方ない。イヴォンヌは洗いざらい打ち明けた。なぜかそのことがものすごく罪深いものに思えてしまう。


「やっぱりそうか。何となくそんな気がしてました。サッカレー氏は誰から見ても好人物だ。あなたが本気になるのも分かる」


「早く結婚して家を出たかったけど、義母が吹聴した悪評のせいで、私は誰からも煙たがられていました。その時にあなたが現れたら話は違っていたかもしれません。あなたが素敵な方なのは本当ですもの。ですが、一番辛い時に手を差し伸べてくれたのは夫しかいなかったんです」


「当時はあなたのことを知らなかった。もっと早く知り合っていれば。うちは軍人となじみが深い家なのに」


 スチュワートは、端正な顔を歪ませながら言った。その横顔を見ると、イヴォンヌへの気持ちは本物らしい。こちらもだんだん申し訳ない気持ちになる。


「私のどこが気に入ったんですか? 取り立てて秀でたところがあるとは思えませんけど?」


「とんでもない。あなたのような魅力的な女性は初めてでした。他人に流されず、意志が強くて芯の通った人は」


 普段褒められ慣れてないので、臆面もなくこんなことを言われると恥ずかしい。イヴォンヌは、耳まで真っ赤になりながら、なるべく素知らぬ振りを装い質問を続けた。


「それをそのままお父様に打ち明けたんですか?」


「お恥ずかしながら、一言一句そのままだった気がします。それがまさかこんなことになるなんて……。本当に申し訳ありませんでした。今回の件は完全に父の勇み足です」


「お父様を責めないでください。あなたを心配しての行動ですもの。私にはすでに両親ともいないから羨ましいわ。そんな顔をしないでくださいな」


「それでも、やはり少し気落ちすると言うのが本音です。謝りに来たと言いながら、本音は少し期待する気持ちもあったんです。ズルいでしょう? でも結果は玉砕です。相手が悪かった。どうかお幸せにお過ごしください」


 スチュワートは、最後は寂しそうに笑いながらイヴォンヌの元を去っていった。ギルバートとの間に亀裂を入れた張本人ではあるが、イヴォンヌは、なぜかスチュワートのことが憎めなかった。これまで味方の少ない人生を送ってきたから、自分に好意を持つ人物を無碍に扱えない。


 彼が好青年なのは真実だ。本当にこれで良かったのだろうか? ギルバートより先に出会っていたら結果は違っていたかもしれない。ついそんなことを考えてしまう。


 だってこの恋は見込みがないもの。ギルバートは今でもクララを忘れられないし、本気になればなるほど絶望も深くなる。これがスチュワートだったらさしたる障害もなく普通の夫婦になれただろう。何ということだ、人生とはかくも不可思議で皮肉めいているのだ。


 イヴォンヌは、一人になったあずまやでいつまでも物思いにふけっていた。だから知らなかった。スチュワートと一緒にいたところを、彼女を探しに来たスタンレー夫人に見られていたなんて。


 スタンレー夫人はギルバートのところに戻って、こっそり耳打ちした。


「ねえ、ギル。あなたイヴォンヌに変なこと言ったりしてないわよね?」


「どうしてそんなこと聞くんだい?」


「あの子を泣かせたら私が許しませんからね?」


「だから何があったんだい?」


「さっき、スチュワート・メレディスとイヴォンヌが二人きりでいるところを見たの。何やら深刻そうな雰囲気だったから気になって。彼は若くてハンサムだから油断しちゃダメよ?」

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