第11話 何がいけなかったの?

 結婚披露パーティーは、成功のうちに幕を閉じた。何ヶ月も前からイヴォンヌが精力的に準備してくれたお陰だと思う。スタンレー夫人も実に協力的だった。終わったらじっくりと感謝の意を伝えたいと思っていたのに、ギルバートは別の思いに囚われ、じっと考え込んでいた。


「おかしい、何かおかしい」


「どうしたんですか? パーティーは無事終わったではありませんか?」


 そう尋ねたのはファーガソン夫人だ。家政婦長のファーガソン夫人は、寝る前の水を寝室に持ってきたところだった。


「この私がイライラしてるんだよ。自分のテリトリーを侵された時の苛立ちというか。しかし、言いがかりに過ぎないのは分かっている。単に私が未熟なだけだ。しかし、すっかり枯れ切った心にどうして今になって波が立つんだ?」


 そう言うと、ギルバートにしては珍しく、荒々しい手つきでコップを取った。いつも音を立てず丁重に扱うのに、ガシャンという音が室内に響く。ファーガソン夫人は目を丸くしてその光景を目にし、その場にいる夫に尋ねることにした。


「ねえ、あなた。ご主人様の言葉を翻訳してくれない?」


「今日のイヴォンヌ様がお美しかったので、すっかり心を奪われたということだよ」


「ああ、そういうことですか。誠に結構じゃありませんか。確かに、今日のお二人はとてもお似合いでしたよ。まるで絵本から飛び出したかのよう。白い結婚なんてもったいない」


「ちっとも結構じゃない。イヴォンヌは若い娘だ。美しくて賢くて……若者特有の傲慢さがなく、どこか達観しているのに繊細なところもある。今回のパーティーだって、夫婦円満なところを見せつけて私の悪い噂を払拭するために企画されたんだ。全くもって立派だよ。ただ、苛立ちの原因を作ったのも彼女だ……いや、誰も悪くない。旧友たちは、私が悲しみを乗り越えたと言って喜んでくれる。だが、クララを蔑ろにしているようで罪悪感が募るんだよ。こんなのあんまりじゃないか」


 ギルバートは顔をぐしゃっと歪め、苦しそうに心情を吐き出した。それほど大ごととは捉えていなかったファーガソン夫妻は、ここまで主人が深刻に考えているとは知らず、顔を見合わせた。辛そうな彼を見兼ね、ファーガソンがおずおずと声をかける。


「別にクララ様を蔑ろにしているわけではないと思いますが?」


「そんなはずはないんだ。だって、私の中でイヴォンヌの占める部分が増えてくれば、その分クララが追い出されるだろう? そのことが許せない。自分でもおかしいと思うがどうしようもない。私がクララを忘れたら、誰が覚えている? みんな忘れてしまったら、それが本当の意味の死なんだよ」


 しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。ファーガソン夫妻が言いたいことは山程あった。そこまでご自身を責めなくてもよいのでは? とか、いくら何でも考え過ぎですとか。


 だが、今のギルバートには何を言っても無駄だと言うのが、長年仕えてきた二人には分かっていた。だから何も言えず、彼の言葉を受け止めるしかない。


 しかし、この変化は悪いことばかりではないのでは? という予感も同時に持っている。後は、ギルバートが変化を受け入れればいいのだが。人生経験を重ねてきた二人は、いずれ時間が解決するだろうと考え、ここはそっとしておこうと思った。


**********


 イヴォンヌの目には、何事もつつがなく進行しているように見えた。結婚披露パーティーは無事に終わった。これで「若い娘を金で買った退役軍人」という汚名はだいぶ薄れたはずだ。


 好評なのはよかったが、今度は、夫婦揃って招待を受ける機会が増えてきた。あちこち行くのが面倒だから一度で済まそうとパーティーを開いたのに、これでは本末転倒ではないか。


 しかし、周囲から好感触を得られた証左でもあるので、喜ぶべきことではある。イヴォンヌの戦略が当たったことに他ならないのだから。


 しかし、今度は別の問題が出てきた。ギルバートの様子が最近おかしいのだ。固い表情でじっとしていることが増えてきた。


 どうしたのかと尋ねると表情を和らげて「気のせいだよ、久しぶりに社交界に顔を出しているから少し疲れているのかも」と答えるだけ。


 それなら気にすることもないだろうと思ったがどうもすっきりしない。そこである提案をした。


「パーティが終わってお疲れなのでしょう。複数のお宅にお呼ばれしてますが、全部断ってゆっくり休みましょう」


「ありがとう。少し休めば良くなるよ」


 イヴォンヌは、彼のにこやかな反応を見てとりあえず安心した。この分なら、それほど心配しなくて大丈夫だろう。


 一方のギルバートは、何気ない風を装って答えたが、正直なところかなりほっとした。イヴォンヌと仲のいい夫婦の振りをするのは想像以上に疲れる仕事だ。


 その間クララのことを忘れてしまうのだから、罪悪感との板挟みになってしまう。こんなこと、彼女にはとても打ち明けられない。


 ギルバートは、久しぶりに温室のアトリエに行って絵描きの日常に戻った。やはり、こうしてクララの絵を描いている時が一番気が安らぐ。


 ギルバートは、描きかけのキャンバスと向き合い、我が家に戻ったような安心感につい口元が緩んだ。そして、意気揚々と絵筆を手にした。


(あれ……? どう描けばいいんだっけ?)


 いざ描き始めようとしたのに手が動かない。まさか。こんなことってあるのか? あれだけ毎日続けてきた習慣なのに、少し時間が空いただけで勘が鈍るなんて。見なくてもすらすら描けたクララの肖像画をどう始めればいいのか忘れてしまったのだ。ギルバートは、予想もしなかった事態に愕然とした。


(ちょっと待て……落ち着け……こんなに家を空けたことがないから感覚が戻るまで時間がかかっているだけだ……心配することない)


 しかし、焦れば焦るほど何も手につかなくなる。戦場でこんなに迷っていたらあっという間に足を掬われてしまう。自分でも戸惑うぐらいに我を失っていた。


「お昼をお持ちしました。あれ、どうしたんですか?」


 昼食が載った盆を手にしてイヴォンヌが温室に現れたのはそんな時だった。少しでもギルバートと顔を合わせる機会を増やすため、昼食を届ける係をファーガソンから譲ってもらったのだ。


 いつもは熱心に絵を描いているギルバートが、この時ばかりは呆然と立ち尽くしていたので、おやと首を傾げる。


「……もう、ここには来ないで欲しい」


 低く小さな声だったので、イヴォンヌは聞き取れずもう一度尋ねた。


「え? 何ですか?」


「ここには来るなと言ってるんだよ。今まで通りファーガソンに頼むから、そう伝えといてくれ」


 ギルバートは、イヴォンヌに背を向けたままぽつりと言った。


(自分は何を言ってるんだ? イヴォンヌには関係ないだろう?)


 もう一人の人物がそう言っているのが聞こえる。だが、このタイミングで彼女と真正面から話し合うのは、いくら何でも無理だ。この自分が、まさか、一瞬でもクララの絵を描けなくなるなんて、その衝撃と向き合っている最中にその原因を作った人物が現れるなんてとても対処しきれない。


「あの、何か気に障ることがあったら……」


「頼む、出て行ってくれ」


 最後は断固とした口調だった。全く身に覚えのないイヴォンヌは、訳も分からずすっかりおろおろしている。しかし、これ以上彼とやり取りする勇気もなく、そのまま温室から出ていった。


 女性らしいカツカツとした乾いた音が次第に去っていく。すっかり足音が遠のき静寂が戻った後で、やっとギルバートは我に返って振り返った。


「そうじゃなくて、イヴォンヌ!」


 しかし、もちろんイヴォンヌの姿はない。誰もいなくなった温室で、ギルバートはなす術もなく固まるしかなかった。


(何をしてるんだ、自分は……いい歳して!)


 後悔したがもう遅い。何も関係のないイヴォンヌに八つ当たりした自分がこの上なく不甲斐ない、恥ずかしい。クララのことが疎かになった責任を彼女に被せてしまった。そうじゃないのに。


 ずっと何年も平穏な状態に慣れ切っていたギルバートにとって、これは根幹から揺るがすほどの大事件だった。50にもなって感情がこれほどまで揺さぶられるなんて。変化についていけない。


 結局これ以上絵筆を取る気になれず、早めに温室から出て行った。昼食もほとんど手をつけず、どこか元気のない様子で戻ってきた主人を、ファーガソンは目を丸くして迎えた。


「どうしました? どこかお加減がすぐれないのですか?」


「そうじゃない。体調は問題ないのだが……いや、今はやめておく」


 そう言った限り部屋に閉じこもってしまった。不思議なこともあるもんだとファーガソンは訝しがったが、当然、事の真相までは想像できなかった。

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