第40話 カノン
※※
ヴァルが、一つの大きな馬車の前で歩みを止めた。いつもなら吠えるところを、今回は首を振って静かに合図を送る。
「どうしたの? この馬車が怪しいの?」
ローカンが問いかけた瞬間、馬車の扉が勢いよく開き、刃が閃いた。
「あ、あわわわわ!」
ローカンはヴァルに強く引っ張られ、転がるようにして剣筋をかわす。間一髪、刃はすぐ横を通り過ぎた。
「どうする? 殺すか?」
「決まってるだろう! 片付けて――」
その時――
「ワオーン!」
ヴァルが鋭く吠えた。その響きに、暗殺者たちが一瞬ひるむ。
ちょうどその時、孤児院から一足早く帰路についているネフェル姉妹の馬車が通りかかる。
「あ、ヴァルどうしたの?」
ネフェルが窓を開けて声をかけた瞬間、暗殺者たちの目が光る。
「聖女だ。ここで仕留めたら、首領に自慢できるぞ。馬車を囲め!」
暗殺者たちは素早く馬車を取り囲み、御者に向かって至近距離から弓を放つ。しかし――
「楽しいなぁ、もっと、もっとだ!」
御者座にいる鞭を持った老人が、軽やかな動きで鞭を操り、放たれた矢を次々に打ち落とす。鞭のしなる音が空気を切るたび、暗殺者たちの攻撃が無力化されていく。
「俺だ! 俺は素手だぞ! 狙いは俺だ!」
もう一人の素手の老人が、矢を放った暗殺者たちを挑発するように叫ぶ。
暗殺者たちは武器を持ち替えて槍を突き出すが、素手の老人は、凄まじい怪力で掴んだ槍ごと放り投げた。槍を持っていた男はもんどりを打って倒れた。
「あいつらはあとだ……キャビンを狙おう!」
暗殺者たちは方針を変え、キャビンを攻撃しようと動く。
「こらこら、老人の相手をせんかい!」
怒鳴る鞭の老人を尻目に、キャビンからもう一人の老人が現れ、片手を軽く振り下ろす。
その瞬間――暗殺者たちは全員その場に崩れ落ちた。一瞬で全員を昏睡状態にしたのだ。
「こら! 俺の獲物だろ、寝てるな!」
「まだ何もしておらんぞ! 早く起きろ!」
残された二人の御者は昏睡している暗殺者たちを軽く蹴り、憂さを晴らしている。
「ご、ご協力感謝いたします……」
立ち上がったローカンが頭を下げると、後続の馬車から一人の若い男が降りてきた。その男は三英雄の執事長だ。
「いえ、何もしておりません」
執事長は穏やかな微笑みを浮かべつつ、ローカンに言った。
「早く馬車にお戻りください。見つかったらサルサ様に怒られますからね」
三老人は、あっという間に定位置に戻ると、馬車を発車させた。
ネフェルとアマリは窓から顔を出し、「ヴァル、またね」と元気な声をかける。
はからずも、ローカンは、素晴らしい経歴をまた一つ刻んでしまった。
※※
暗殺者の首領は、呆然としていた。彼以外の全ての人間が捕まっていた。今日の獲物は、去り際に倒した強そうな女一人だけか。
「明日は、この俺の凄さを示してやろう。暗殺というのは、こうやってやるのかって、教えてやるよ!」
リベンジに燃えて、姿を消した。
※
孤児院の寝室に、セラは運び込まれた。
居合わせたサルサ医師が診断すると、針には特殊な猛毒が塗られていたことがわかった。
彼女の体力が限界だったせいで、毒が急速に体内を巡っている。だが、治療薬が手元にない。
「効果は保証できないが……」
そう言い残し、シロノをサナトリウムへ向かわせたものの、一刻を争う状況だった。
ノルドは震える手で、母の傷跡に特製のクリームを塗り込む。
「母さん……どうだ、母さん……」
しかし、セラの容態は悪化するばかりだった。
「ああ……俺が無理をさせたせいだ……普段の母さんなら、こんなことで……くそっ、くそっ……俺が優れた薬師だったら……」
ノルドは嗚咽をあげ、床に崩れ落ちた。
セラの意識は失われ、呼吸は浅く早い。
その時、島主が一人の刺青女を連れて現れた。
「おい女、お前なら何とかできるだろう。もし何かあったら……」
苛立ちを隠せない声で迫る。
女は椅子に腰を下ろし、足を組んで不敵に笑った。
「カノンよ、好きにすれば」
そこへグラシアスが部屋に駆け込んできて叫ぶ。
「いくら欲しいんだ!」
「いらないね」
カノンは冷たく言い放ち、初めてセラをじっくりと見た。
その時、セラの髪を覆っていたスカーフがはらりと落ちる。
毒に侵されたような痣、薄くなった髪――過去に地獄の痛みを耐え抜き、それでもなお生き延びたのだろう。それは、あの醜く不自由な子供のためだったのかもしれない。
「私は死なせてしまったのに……」
誰にも聞き取れないだろう、とても小さな声でぼそっと呟いた。
「条件は、シシルナ島への亡命と自由だ」
カノンはそう宣言して、ノルドに解毒薬を手渡した。
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