第27話 花屋
アマリアの住むエッセンベルン伯爵家には、伯爵夫妻とアマリア、アマリアの弟の他に、使用人が三名のみだった。
家事に精一杯な使用人の代わりに、週末はアマリアが一週間分の食材や、必要な物を買いだしに行っているという設定だ。
ゲームでは攻略対象の一人であり、幼馴染のアルフレートがそれに付き合うというのが基本設定だが、攻略対象の好感度によって様々なイベントが発生する。
ベルーノとの好感度が高ければ、ガラの悪い連中に襲われているところを助けられたり、レオンハーレンとの好感度が高ければ、お忍びで出かけている彼と偶然鉢合わせになったりもするわけだ。
——まだ序盤だし、二人に会う事は無いはずよね。それよりも、学園の外だから、ジルはきっと私の行動を見る事もできないのよね。
ヒルデは買い物した食料を軽々と抱え、馬車へと積み込みながら残念に思った。
もう随分とジルの顔を見ていない気がする。以前は毎日の様に顔を合わせていたというのに。
逢えないとなると、想像の中に登場する回数がやたらと増える。ふとした瞬間にも、常に彼の事ばかりを考えている自分に気づき、殊更に寂しさが募っていくのだ。
「ヒルデ、冗談かと思ったら本当に君は力持ちなんだね」
男性のアルフレートが一袋ずつ運ぶ小麦袋を、ヒルデは三袋まとめて運んでいるのである。アマリアも驚いて、慌てて謝罪した。
「ごめんなさい、ヒルデさん。今日は小麦がとても安かったので、沢山買い込んでしまって」
「余裕ですわ! 言ったでしょう? 力仕事なら任せてって」
余裕の笑みを浮かべ、ヒルデは「これで今日のお買い物分はお終いよね?」と、振り返った瞬間、ドン! と人にぶつかってしまった。
「ごめんなさい!」
咄嗟に謝ったヒルデに、相手は「いや、こちらこそすまない」と言い、目深にかぶったフードの奥から紺碧色の瞳を向けた。
「ひぃいいい!?」
ヒルデが悲鳴を上げたのは無理もない。ぶつかった相手はお忍びで出かけていたレオンハーレンその人だったのだから。
——まだゲームが始まって間もないのに、お忍びイベントが発生するだなんて変だわ!
「誰かと思えばヒルデか。ここで一体何をしているのだ?」
——あんたこそ何してるのよ!?
相当不敬である。
ヒルデは涙目になりながら「お買い物……」とだけ言い、俯いた。衣服は小麦袋を運んだせいで、白く汚れており、唇を噛みしめた。
「どうした、随分と衣服が汚れているようだが」
『こんなに汚して帰ってきやがって! 今日は家に入れないからな!!』
学校でいじめに遭い、ドロドロに汚れて帰って来た愛莉に、父は容赦無かった。心も傷だらけになっている彼女は、寒空の下にほっぽりだされ、一人寂しく耐えるしか無かったのだから。
「……ごめんなさい」
小さく言ったヒルデの言葉が聞こえず、レオンハーレンは怪訝な顔を浮かべた。
「あれ? 殿下だ」
アルフレートがあっけらかんとして言い、アマリアが驚いて「まあ!」と、声を上げた。レオンハーレンはしかめっ面を浮かべて咳払いをし、「これでは忍んできた意味が無い」と不満を口にした。
「ヒルデ、少し私につきあってくれ」
レオンハーレンはヒルデの手を掴むと、アマリアとアルフレートの二人に「私の婚約者を少し借りるぞ」と断って、強引に連れ出した。
アマリアは何やら両手をぎゅっと握りしめて、応援でもしているかのような素振りをしている。
——人攫い!?
ヒルデは白目を剝きながらレオンハーレンに手を引かれ、この先一体どんな不幸が待ち受けているのかとゾッとした。
——いきなり投獄だなんて事は無いわよね!? でもどうして? 汚れた格好をしていたから? あ、ひょっとして殿下にぶつかったから!?
「あの、殿下! ぶつかってしまった事でしたら謝罪しますわ! ですからどうか……」
レオンハーレンはハッとした様にピタリと脚を止めると、小さくため息を吐いた。
「私があの程度の事で怒ったと思ったのか?」
フードの奥から紺碧色の瞳を向け、レオンハーレンが寂しげに言った。
「……違いますの?」
「ああ、全く違う。そなたはどうしてそうも私を恐れるのだ?」
——だって、殿下の命令でジルは……。
ヒルデは大イチョウの葉が大量に舞い落ちて、ジルの命が静かに消えていったあの瞬間が脳裏を過り、思わずレオンハーレンの手を振りほどいた。
怯える様に震えるヒルデを見つめ、レオンハーレンは唇を噛みしめて俯いた。
「……すまぬ、強引過ぎた。痛かったか?」
首を左右に振るヒルデを見て、レオンハーレンは僅かにホッとした様にため息を漏らした。
「そなたが倒れて以来、顔を合わせていなかったから……こうして元気な様子を目にして、ちゃんと話がしたいと、つい衝動的になってしまったのだ」
ヒルデを紺碧色の瞳で見つめ、レオンハーレンは寂しげに笑みを浮かべた。
「ずっと、そなたの身を案じていたのだ。だが、私は自ら動ける程身軽な立場ではない。だから、このチャンスを逃すまいと焦ってしまった。すまなかった」
「それなら、学園で声を掛けてくださったらよろしかったですのに」
「学園内では人目が多く、学年も異なる故、そなたと会うにも口実が必要だからな。いや、それも言い訳に過ぎぬな。何かしら口実を作れば良かったのだから」
俯くレオンハーレンを見て、ヒルデは小首を傾げた。
——私を、本当に心配してくれていたの……? でも、私は悪役なのに……。
ふんわりと、レオンハーレンからベルガモットの香りが漂い、ヒルデの鼻をくすぐった。
——そういえば、殿下は精油を直接皮膚に塗布していたから、肌荒れしていたわね。
ヒルデが手を伸ばし、レオンハーレンの首筋に触れた。彼は驚いた顔をしながらも、ヒルデを怯えさせてしまったせめてもの償いにと、黙って動かずにいた。
首筋が僅かに荒れている事を指先で確認し、ヒルデはチラリと彼を見つめた。
「殿下、ベルガモットの精油には光毒性がありますわ。日の光に晒されると、肌に悪影響を与えてしまいます」
「……なるほど、道理で発疹が治まらぬわけだ」
「肌に直接塗布しないように、布に染みこませる等をしたらどうかしら」
「そうだな、気を付けよう」
以前と同じ会話を繰り返した事に、ヒルデは小さく笑った。
レオンハーレンは何故ヒルデが笑ったのかよく分からなかったが、やっと笑みを見せてくれた事に安堵した。
「ヒルデ。先ほどそなたは買い物に来たと言っていたが、何を買いに来ていたのだ? 良ければ私も付き合いたい。強引な事をしてしまったから、せめてもの詫びだ。何でも欲しい物を言ってくれないか」
「お買い物は、私の用事ではなくアマリアさんのですわ。それに、もう済んでしまいましたの」
「そうか……」
残念そうに言ったレオンハーレンに、ヒルデは小首を傾げた。
——この人、何がしたいのかしら?
不敬である。
——そうだわ、折角だからアマリアさんの家に殿下も連れて行って、好感度を上げてしまえば、学力も上がって一石二鳥じゃないかしら!?
勝手である。
「私、お買い物の後にアマリアさんのご自宅で、一緒に試験勉強をする予定ですの。よければ殿下も一緒に如何かしら? 殿下はいつも首席なのでしょう? 是非勉強のコツを教えて頂きたいわ」
——アマリアさんに。
と、心の中でヒルデは言葉を付け加えた。
王族を随分と軽々しく誘ったわけだが、ヒルデに無礼を働いてしまったレオンハーレンは、すんなりと了承した。少しでもヒルデと共に居たいという思いからの承諾だった訳だが、ヒルデは『攻略対象が、ヒロインの家に行くのを断れないわよね』とほくそ笑んだ。
「アマリア・エッセンベルン嬢といえば、魔力測定で類まれなる魔力量を打ち出した令嬢だな」
「ええ。そうですわ。それに、可愛らしくて優しくて、本当に素敵な方なの。きっと殿下も気に入りますわ!」
「ふむ……令嬢の自宅に手ぶらで訪問するわけにもいかぬ。花屋に立ち寄っても良いだろうか」
レオンハーレンの申し出に、「勿論ですわ!」とヒルデは笑顔で頷いた。
とびきり綺麗な花束をプレゼントして、アマリアの心を射止める事を期待したわけだが、いくらゲームといえども人の心はそんなに単純ではない。
花屋に到着したレオンハーレンは、自ら手に取り丁寧に選んでおり、花束一つ
春らしくピンク色のチューリップをメインに、赤のラナンキュラスを数輪加えた可愛らしい花束が出来上がり、ヒルデはその花言葉を思い出した。
——ピンクのチューリップは、『愛の芽生え』『誠実な愛』。赤のラナンキュラスは『貴方は魅力に満ちている』か。殿下は知っていて選んでいるのかしら? 後でアマリアさんに教えてあげたら、きっと驚くわね。
だが、レオンハーレンは出来上がった花束を送り届ける様に指示し、もう一つ花屋におまかせで作らせた花束を手に、「待たせてすまなかった」と振り返った。
「実は、私が忍んで来たのは花屋に来たかったからだ。どうしても、自分で選びたくてな」
「素敵だわ。自分で選んだ方が、心が込められていますもの」
「……そう思うか?」
「ええ!」
ヒルデの言葉を聞き、レオンハーレンは嬉しそうに紺碧色の瞳を細めた。その笑顔といったら、流石は高難易度攻略対象と言わんばかりに輝いており、花屋の店主も見惚れる程だった。
——よっぽど大切な人なのかしら。ヒロイン以外に誰かしら。ひょっとして、この人浮気しているの!?
とんだ勘違いである。そもそもアマリアとレオンハーレンは恋仲ではない上に、レオンハーレンの婚約者はヒルデである。
ヒルデはモヤモヤした気持ちのまま、レオンハーレンを連れ、アマリアとアルフレートの元へと戻った。
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