第25話 心時雨る

 外は生憎の雨だ。

 春の雨はまだ冷たく、ヒルデは寒さに悴む手をぎゅっと握りしめながらも、裏山へと駆けて行った。


 ジルと出会った泉の畔へと赴くと、花をつけた大イチョウの木がヒルデを出迎えた。

 葉の数はまだ少なく、黄金色の花粉を含んだ沢山の穂をつけて、生き生きとした様子だ。


——大イチョウに、泉。私が通っていた神社の『銀月』の物語と似ているこの場所が、偶然とは思えない。


「ジル! 出て来て頂戴、居るんでしょう? 貴方に会いたいの!!」


 雨がヒルデの体温を奪っていく。それでもヒルデはジルに会いたくて、彼の名を呼び続けた。


——彼はあの時、『お前さんを不幸になんかしたくねぇんだ』と言ったわ。ジルが銀月なら、莉との過去を引きずっている可能性が高い。

 莉は銀月に、自分の願いを叶えて貰って不幸じゃないはずなのに、どうしてそんなことを言ったのかは分からないけれど、少なくとも、約束を反故にされたジルはとても傷ついたに違いないわ。

 今度は私に裏切られると思ったの? 私は、絶対にそんなことなんかしないわ!


「お願いだから出て来て!! 誰からも愛されなかった私を、ジルだけは大切にしてくれたから。誰に恨まれ様とも構わない。貴方の側に居たいの。私は、貴方を裏切ったりなんか、絶対にしないわ!」


 ヒルデは叫び、凍えて悴む両手で自らの両肩を抱きながら蹲った。余りの寒さに身動きが取れなくなり、「お願いよ、ジル……」と、小さく言葉を発するのが精一杯だった。


 容赦なく降りつける冷たい雨が、泉の水を叩きつけ、流れ込む雨水が濁している。


 びしょ濡れになった髪や制服が、冷え切ったヒルデの身体から更に体温を奪い尽くしていく。


 どれほどに時が経っただろうか。ヒルデは蹲った状態でいることすら困難になり、その場に倒れ込んだ。冷たい雨は尚も降り注ぎ、ヒルデの姿を隠してしまっているかの様だった。

 これではアマリアやアルフレートが心配になって探しに来たとしても、ヒルデの姿を見つけることは困難だろう。


 だが、雨水をたっぷりと含んだ草を踏みしめながら、ヒルデの元へと人影が近づいて来た。


「……春の雨は菜種梅雨なたねづゆと呼ばれる長雨だ。催花雨さいかうとも呼ばれていてな、花を咲かせる大事な雨だが、まだまだ気温が低い。人間には堪えるだろう」


ヒルデの冷え切った身体を軽々と抱き上げて、ふぅっとため息を漏らす。


「こんなに冷たくなるまで……。そんなに俺様に逢いたかったのか? でもな、愛莉。俺様は、お前さんを幸せにはできねぇんだ」


 ふわりとヒルデを温かさが包み込んだ。ジルの魔法が雨水を弾き、あっという間にヒルデの髪や衣服を乾かしたのだ。



◇◇◇◇



 神社の手水舎の隣。私にとって唯一落ち着ける場所だった。

 学園の裏山の泉の畔。このゲームの世界で、私が大好きな場所。


 そのどちらにも、『大イチョウ』が居たから。


 彼が見守ってくれていたから、居心地が良かった。彼が私に居場所を与えてくれていた。現実世界でも、このゲームの世界でも。


 莉が何故、彼を裏切ったのか。あの時は全然分からなかったけれど、今の私なら分かる気がする。


 きっと彼女は、銀月を愛していたから、大切だったから、人間になって欲しく無かった。人間になってしまえば、寿命が短くなってしまう。それに、誰にも愛されなかった莉とは違って、銀月はご神木として大勢の人に愛されていたから。皆から彼を奪ってしまうことなんか、莉にはできなかった。

 銀月の側に泉が沸いたのなら、彼はもっと皆に愛されるだろう。自分のちっぽけな愛情なんかじゃなく、万人に永遠に愛される銀月を、莉は望んだに違いない。


 ……でも、ごめんなさい。


 私は、皆に愛されるジルを見るよりも、私を愛して欲しい。


 誰からも愛されなかった私を、ジルだけは大切にしてくれたから。誰に恨まれ様とも構わない。貴方の側に居たい。


 それが叶うのなら、他の何も要らない……。


「ご…めんなさい……」


 うわ言の様に言ったヒルデに、「気が付いたか!」と、声を上げて、何者かが覗き込んだ。

 アッシュブルーの髪がさらりと揺れ、紺碧色の瞳を心配そうに向けている。


「……ひぇっ!!」


 ヒルデは思わずそう声を上げて飛び起きた。つまり、それ程にレオンハーレンが苦手だという事である。


「で、殿下!? どうしてこちらに!?」


驚き過ぎて裏返った声を発したヒルデに、レオンハーレンは気を悪くしたように眉を片方下げた。


「そなたが倒れて医務室に運び込まれたと知らせを受けたのだ。婚約者の一大事とあらば、駆け付けるのも当然だろう」


——医務室……?


 ヒルデはキョロキョロと辺りを見回した。白い壁に白い天井。そして白木づくりのベッドに、清潔そうな寝具。ヒルデはベッドの上で上体を起こしており、その傍らの木製の椅子に、レオンハーレンが掛け、少し離れた所にはベルーノが立っている様子が見えた。


——私、泉の畔で気を失ってしまったのね。ジルは結局来てくれなかったんだわ。


 ため息をつき、ヒルデはぎゅっと拳を握り締めた。


「殿下が、私をここへ運んでくださったのかしら?」

「……いや、私はベルーノから知らせを受けて駆けつけただけに過ぎぬ」


ベルーノは遠慮がちに歩み寄り、心配そうにヒルデを見つめた。


「私が学園の専属医から知らせを受けた時には、エルメンヒルデ嬢は既にこちらに運び込まれた後でした。一体何があったのです?」


泉の畔で倒れたのだと言おうとして、ふと、自分の服が完全に乾いている事に気が付いた。


——へ? ひょっとして、誰かが私を着替えさせたのかしら!?


 思わず赤面したヒルデに、レオンハーレンとベルーノが不思議に思って顔を見合わせた。


——あれ? でも、髪も完全に乾いているわ!? この世界にはドライヤーなんて無いはずだし……。一体どういうことかしら!? これは本当の事を言っても『嘘をつくな、不敬な輩め!』と、怒られるヤツではないかしら!?


 ゾッとして今度は顔を青くしたヒルデに、レオンハーレンは困った様にため息を吐いた。


「そなたは今気が付いたばかりで混乱しているのだろう。ゆっくりと休んだ方が良さそうだ。私達は席を外そう」


 席を立ったレオンハーレンの隣で、ベルーノが心配そうに黒曜石の様な瞳でヒルデを見つめた。


「エルメンヒルデ嬢、ご無理はなさらず。本当に心配致しました。どうかお大事になさってください」


 好感度が上がったままである為、ベルーノは純粋にヒルデを心配してそう言ったわけだが、当のヒルデ本人は『この人、何か企んでいるのかしら!?』と、警戒していた。


 不憫な男である。


 二人が部屋から出て行った後、ヒルデはベッドに上体を預けた。冷たい雨が自分の体温を奪っていったあの感覚を思い出し、思わず身震いした。


——あのまま居たら、私は凍え死んでいたかもしれないわ。それなのにジルは、何度叫んでも姿を現してくれなかった。

 本当に、もう二度と私とは会ってくれないのかしら……。


 悲しみに暮れ、ヒルデは咽び泣いた。押し殺した嗚咽が医務室内に響く。


 コツコツと、医務室のドアがノックされ、ゆっくりとドアが開いて、アマリアとアルフレートが遠慮がちに顔を出した。


「ヒルデさん、大丈夫ですか?」

「驚いたよ。具合はどう?」


 心配そうにそう言った後、ヒルデの泣き顔を見て二人はぎょっとして医務室へと入って来た。


「どこか痛いのですか!?」

「大変だ、医師を呼んで来ようか!?」

「大丈夫よ! これは、違うの。そうでは無くて……!」


——ただ、寂しくて……。


 アマリアがヒルデの両手を優しく握ると、じっと見つめた。


「ヒルデさん、私達、お友達になったのですから、何か困った事があったら話してくださいね。いつでも相談に乗りますから」

「そうだよ、ヒルデ。幼馴染なんだしさ!」


 二人を見つめ、ヒルデは驚いて瞬きをした。じんわりと胸が熱くなり、再び瞳から涙が零れ落ちる。


「あら……? 嬉しくても、涙が出るものなのね」


ヒルデの言葉に、アマリアとアルフレートはキョトンとした後、にこりと微笑んだ。


「ヒルデさんは、公爵家のご令嬢で、殿下の婚約者で、色々と重責を抱えていますからね。私達の前では、気遣いしなくても平気ですよ」

「勿論さ! 俺は小難しいことなんかよく分からないしね!」

「アルは、もうちょっとお勉強した方がいいと思うかな……」


アマリアの鋭い突っ込みに、ヒルデが笑うと、アルフレートが照れた様に笑い、アマリアもホッとした様に笑った。

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