第二章 儔侶の秋

第22話 リセット

「……り…」


 遠くで聞こえる声に、ヒルデは眉を寄せ、重い瞼をゆっくりと開いた。


「……莉っ!」


 あまりの眩しさに、ただでさえ重い瞼をぎゅっと顰め、呻き声を上げながらも必死の思いで開いた。


「愛莉!!」


 エメラルドグリーンの瞳から大粒の涙を零したジルの顔が、視界一杯に広がる。


——ジル……? これは、夢、かしら……?


 ヒルデは暫く微睡んで、自分が一体どういう状況にあるのかを考え様とした。


「やっと気が付きやがったか、大馬鹿野郎めっ!!」


ジルがヒルデを強く抱きしめ、バシャリと水の音が発せられた。


——冷たい……。私、どうなったのかしら。ジルがベルーノに刺されちゃって……? そうだ、それで聖なる力を使ってジルを復活させたのよね?

 おかしいわ。どうして生きているのかしら? 寿命はもう尽きたはずなのに……。


 ぼうっとしているヒルデを抱き上げて、ジルは泉から上がった。ポタリポタリと、ジルの黄金色の髪から水が滴り落ちて、煌々と輝く月の光を受けて水晶の様に光を放った。


「えーと、ここは誰かしら?」


——あ、間違えちゃったわ。


「ん? ここは……誰だろうな??」

「いや、真面目に答えないでよ。間違えただけなんだから。頭は正常よ」


 ヒルデはジルから離れると、びしょ濡れの衣服の裾を絞った。ジルは名残惜しそうにヒルデを見つめていたが、ホッとした様にため息をついた。


 はらりはらりとイチョウの葉が落ちてきて、ヒルデの濡れた銀髪に張り付いた。

顔を上げ、大イチョウを見上げたヒルデは、ここが学園の裏にある泉。つまりはジルの住処であると分かった。

 不思議な事に、イチョウの葉の数は少なく、枝には春先の様に、穂状の花が咲いている。


 周囲を見回し、そこにはヒルデとジル以外誰も居ないということに気がついた。


「殿下とベルーノさんは? 二人は諦めて帰ったのかしら?」

「いや、そうじゃねぇよ」


 ジルは自分の胸を擦ると、「俺様、マジで痛かったし、死にそうだったんだぜ?」と言ってへらへらと笑った。


「私は死んだ気がするのだけれど?」

「ああ、死んだな」


 ケロリとした様子でジルは応えると、「いやぁ、しんどかったなぁー!」と言ってゴロリとその場に寝転がった。


「ちょっと待って!? 一体どうなったのよ!?」

「戻ったんだ。リセットしたからな」

「『戻った』の意味も『リセット』の意味も、全然分からないわよ!?」

「えー? 別に分からなくても良くね?」

「良い訳ないでしょう!?」


ヒルデは叫ぶと、寝転ぶジルの元へと詰め寄った。


「一体何がどうなったのか、包み隠さず話しなさいよっ!」

「うーん……やなこった」

「……」


ヒルデはムッとして唇を尖らせると、すっくと立ちあがった。


「あれ? 何処行くんだ?」

「自分で調べに行くのよ。何が『戻った』なのか、『リセット』はどういうことか」

「あっ!!」


ジルは慌てて飛び起きると、ヒルデの手を掴んだ。


「待って、行くなって! だからその……えっと……」

「言うなら早くしてくれないかしら。寒いわっ」


 体中がずぶ濡れ状態である為、ヒルデはカタカタと震えながら言った。


——おかしいわね。夏休み前なのに、どうしてこんなに寒いのかしら!?


 ジルはハッとしてふわりと魔術をかけた。

 衣服が一瞬のうちに乾き、ジルが身に付けていた純白のローブをヒルデの肩に掛けた。

 煙草の匂いがほんのりと香ったが、ヒルデはお礼を言ってぎゅっとローブの縁を引き、肩からずり落ちないようにと押えた。


 そして妙に思った。確か、ジルは珍しく正装し、白地に銀糸で刺繍の施されたコートを羽織っていたはずなのに、と。


「その、確かにお前さんは死んだ。だから、俺様はリセットしたんだ」

「だから、その『リセット』っていうのはどういうことなの!?」

「……えーと……」


 ジルは言いづらそうにした後に、「秘密……」と、言い、ヒルデに冷たい目で見つめられた。


 ふと見ると、ヒルデの服装は黄金色のドレスでなければ、学園の制服でも無く、動き易い騎士服に似せたパンツルックである事に気がついた。

 この服装は学園入学前に、ヒルデがアマリアより先に聖なる力を手に入れようと奔走していた頃の服だった。


「おかしいわね。今は一体何時なの……?」

「えっと、俺様がお前さんに、聖なる力を授ける前ってところか?」


ヒルデはジルの言葉を聞き、素っ頓狂な声を上げた。


「『戻った』ということなの!?」

「ああ。このゲームは一度ゲームオーバーになったんだ。だからゲーム開始になる学園入学前日に戻ったってこったな」


ヒルデは呆然とし、唇をかみしめた。


——ゲームオーバーですって? 一体どうして……?


ジルはヒルデからの質問に怯える様に目を逸らし、そわそわと落ち着かず身体を揺らした。


————あの時……。

 動かぬ身体となったヒルデを見て、怒りと悲しみに満ちたジルは、凄まじい速さでダンスパーティーの会場へと乗り込んだ。


 天窓を割り、沢山の破片が、パーティーを楽しんでいた者達の頭上へと降り注がれる。


 先ほどまで笑い声に溢れていた会場内は、一瞬のうちに阿鼻叫喚となり、奏でられていた音楽が止み、灯されていたシャンデリアの灯りも落ちた為、辺りは暗闇と化した。


 ジルはその中で静かに息を顰め、エメラルドグリーンの瞳をすっと動かした。淡い桜色のドレスを身に纏ったアマリアの姿を認めたのだ。


 アルフレートが怯えながらも必死に叫ぶ。


「一体何が起きたんだ!? アマリア、俺の後ろに隠れて!!」


 アマリアを守ろうと、暗闇の中で自らの身体を盾にした。が、ジルにとってそんなものは何の障害にもならなかった。手を翳し、その身に溢れんばかりに満ちている魔力を放出する……


————アマリアもアルフレートも、苦しむ間も無く逝った事だろう。

 だが、それをヒルデに伝える訳にはいかないと、ジルは唇をかみしめた。もしもそのような事をしたと彼女が知れば、ジルを恐れ、嫌うだろうと思ったからだ。


 誰よりも暴力を嫌い、痛みを知る彼女だから尚更の事だ。


「変ねぇ。ストーリー序盤でゲームオーバーだなんて、よっぽどの事よね」


 ヒルデがボソリと言った後、ハッとした様にジルを見つめた。その視線にびくりとし、ジルは、やはりバレたかと観念し、ぎゅっと瞳を閉じた。


「ひょっとして、悪役令嬢の私が死んじゃったから、それでゲームオーバーになっちゃったということなのかしら!? そうね、悪役がさっさと消えちゃったら、ゲームとして成立しなくなるものね!」


 ジルはホッとして胸をなでおろしたものの、ヒルデを騙している様でズキズキと良心が痛んだ。

 だが、この世界の事実を全てヒルデが知り、その責任を負う必要など無いのだ。

 彼女を救いたいが為に、ジルが勝手に行動を起こしただけであり、それだというのに、事実を知ったなら自分を責めてしまう程に、彼女は心の優しい人なのだから。


 痛みを知っている人というのは、他人に対しても優しいものだ。ヒルデは愛莉として、十分過ぎる程に痛みを味わってきた。これ以上傷つく必要などない。傷つけたくない。


 そして、彼女が望む人生を、歩んで欲しい。


「愛莉」


 ジルはヒルデの手を取ると、ニッと笑みを浮かべた。


「お別れだ。お前さんは、これ以上俺様と関わったらダメだ」


——一緒に居たら、いつか俺様がした事を知る事になるだろう。それに、俺様は誰も救う事なんかできないんだって事が分かっちまったから。

 莉の時も、愛莉の時も、そしてヒルデの時も。俺様が関わると、ろくな事になりゃしねぇ。

 もう二度と、愛する者が死ぬ姿を見たくなんかない。


「お前さんを不幸になんかしたくねぇんだ」


 そう言って、遠慮がちに頬に触れたジルの手が温かく、ヒルデはその温もりを味わうかのようにその手に触れた。


「勝手な事、言わないでくれないかしら?」


ヒルデはジルの服をぎゅっと掴むと、サファイアブルーの瞳をキッと向けた。


「私はジルと一緒に居たいわ! だから命がけで貴方の傷を癒したのだもの!! それなのにお別れですって!? 冗談じゃないわよ!!」

「……俺様と、一緒に居たいのか?」


戸惑うように言ったジルに、「そうよ!!」とヒルデは応えると、ジルを抱きしめた。


「初めて一緒に居て楽しいと思える人が出来たのだもの! 離れるだなんて、絶対に嫌っ!! ジルが居ない寂しさに比べたら、他の不幸なんてどうだっていいわ!」

「でも、俺様と居ると……」

「平和じゃなくても、健康じゃなくても構わないわ! 貴方と一緒に居たいのよ、ジル!!」

「愛莉、お前さんは、俺様と一緒に居る事を選んでくれるのか? 自分の幸せより……?」

「貴方と一緒に居ることだけが私の唯一の望みだもの!!」


すがりつくヒルデを呆然として見つめた後、ジルは悲し気に瞳を伏せた。


「ジル、お願い。どこにも……」


 ちゅ、と、ジルはヒルデの唇にキスをした。


「!!!!!!!!!!!!」


 突然の事で驚いて硬直したヒルデに、ジルはニッと笑みを向けた。彼のエメラルドグリーンの瞳から涙が溢れ、つぅっとその頬を伝った。


「ありがとう、愛莉。でも……」


 ジルはそう言うと、ヒルデから離れた。そしてさっと身を翻し、姿を消してしまった。


「え……? ジル……?」


 その場にたった独り取り残され、ヒルデは辺りを見回した。


「ジル! 冗談はやめて、出て来て頂戴!! 居なくならないで。私を置いて行かないで!!」


 ヒルデの叫びは虚しく、泉に流れる水音や風に揺らめく大イチョウの葉の音に掻き消された。


「ジル!! お願いよ!!」


 悲鳴のような声すらも、ジルの耳には届いていない。ヒルデはたった独り、その場で崩れる様に座り込み、泣きじゃくった。

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