第21話 悪役令嬢エルメンヒルデの幸福
泉の畔に、ヒルデの悲鳴が響き渡る。
「うお……いってぇなあ、おい……」
「ジルっ!!」
倒れ込むジルの側へとヒルデが駆け寄り、サファイアブルーの瞳から大粒の涙を零しながら、ジルの両頬に触れた。
ジルは顔を顰め、痛みに耐えながら胸を押さえつけている。
「一思いにって、俺様思ったよりしぶとかったみてぇ。格好悪いなあ……。あー、痛え」
「馬鹿! どうせなら単細胞並みにしぶとくなりなさいよっ!!」
「……お前さん、それだと俺様分裂しちまわねぇか? 半分に切ったら増える、みてぇな」
「冗談言ってる余裕なんか無いでしょう!!」
ベルーノはジルを貫いた剣を鞘へと納め、レオンハーレンへと視線を向けた。
レオンハーレンは頷くと、溜息をついた。
「私も鬼ではない。邪神とはいえ、ヒルデと懇意にしていた相手だ。別れの時間くらい与えても問題ないだろう」
そう言って、彼は倒木に腰かけ、ヒルデとジルの様子をじっと眺めた。
はらはらと、大量のイチョウの葉が舞い落ちてくる。
辺り一面が濃い緑の葉で埋め尽くされていき、まるでジルの生命の終わりを告げているかのようなその光景に、ヒルデは絶望した。
「嫌、どうして。降って来ないで!!」
悲鳴を上げ、取り乱すヒルデに、レオンハーレンは俯きながら言葉を吐いた。
「ヒルデ。私を怨むか?」
応えないヒルデに、淡々と彼は続けた。
「そなたに恨まれ様とも構わぬ。私はこの国の秩序を守る王族として……」
「煩い、黙って!! 貴方の話なんかどうだっていいわ!!」
ヒルデは一喝すると、ジルの額にかかっている黄金色の髪を掻き分け、舞い落ちて来るイチョウの葉を振り払った。
「奪う側の人って、奪われた人の気持ちなんか考えられないのよ。だって、奪われた事なんか無いんだもの! 私には、貴方の言い分なんか響かないし、聞きたくもないわ!」
——お父さんは、私から全てを奪っていったわ! 私が何も抵抗できないことをいいことに、生きる気力でさえ!!
「お前さん、そいつは王子様には辛辣だなぁ……」
ジルは力なく笑い、エメラルドグリーンの瞳を空へと向けた。白銀の月が輝いているというのに、ジルの瞳には光が届かない。
ヒルデは必死の思いでジルの手を握り締めた。
「辛辣でも何でも構わないわ! ジル、お願いだからどこにも行かないで! 死ぬなんて、許さないわ!」
「気にすることなんかねぇさ、俺様は脇役でしか無いんだからな。言っただろう? 少しばかり早まったってだけなんだって。お前さんは、お前さんの人生を生きろよ。健康で、平和な、だっけ?」
ヒルデの心が激しく痛んだ。
ジルが何故ああも別の生きがいを見つける様に勧めたのか、そして何故彼がいつも側に居てくれたのか、理由が分かったからだ。
ジルはヒルデの側に長く居る気など、最初から無かった。消えゆく運命を解っていたからこそ、ヒルデに警告してくれていたのだ。
ジルの瞳から光が消えていく。
「いかないで、ジル。神様なんだから、ずっと見守ってくれるんじゃないの? 貴方は私にとって、大切な……」
「ああ、見たかったなあ……お前さんが、幸せになった姿を……」
——幸せ……? 何よ、何言ってるのよ。勝手に私の幸せを決めたりなんかしないでよ!! 私は……私の幸せは……!!
ヒルデはパッと両手をジルへと掲げた。
光が発せられ、貫かれた胸の傷がみるみるうちに癒されていく。
レオンハーレンは、ハッとしてその状況を見つめていた。
「聖なる力か!! ヒルデ、その者を癒す気か! 奴は邪神だぞ!!」
レオンハーレンの声など、ヒルデの耳には届いていなかった。
——バカみたい。今更気づいたわ。健康で、平和な生活だけを手に入れても、一人じゃ意味が無いってことに。
ジルは痛みに眉を寄せた。瞳にみるみるうちに光が戻り、その視線をヒルデへと向けると、悲鳴の様に叫んだ。
「な、何してやがるんだ!? おい、止めろよ、お前さんの寿命が!!」
——私にとって、ジルが居ない世界なんて意味が無いの。どう頑張ったって、幸せになんか、なれないわ。
「愛莉!! 止めろ。死んじまう!!」
——悪役令嬢が残るよりも、神様が残った方がずっといいに決まっているもの。皆の幸せの為には、ジルが生きるべきだわ。
「だめだ!! 愛莉、そんなの駄目だっ!! 頼む、止めてくれ!!」
——有難う、ジル。貴方と過ごした時間は、私にとって最高に幸せだった。
私は、大好きな貴方から、何も奪いたくなんかない……。
「愛莉っ!!!!」
ヒルデの両手から放たれた光は、彼女の魂を、命を削り、ジルの傷を完璧なまでに癒した。
起き上がったジルの様子を見つめ、満足気に微笑んだ後、ふっとその命の終わりを告げるかのように倒れ込み、二度と瞳を開ける事は無かった。
「……おい……こんなエンディング、誰が認められるってんだ……?」
ジルはヒルデを抱き抱えたままポツリと言った。レオンハーレンとベルーノは、その光景を唖然とし、何もできずに見つめていた。
ジルは邪神として既に殺された。悪役令嬢であるヒルデも死に、ゲームのストーリーとしては完璧なエンディングだ。
敵とは一体何なのだろうか。
今までヒルデが戦い続けてきた相手は、攻略対象でもなければヒロインのアマリアでもない。
抗おうとしても強制的に運命を捻じ曲げられる、このゲームのストーリーそのものなのだ。
「俺様が、このくだらねぇ世界をリセットしてやる……」
黄金色の髪を揺らめかせ、エメラルドグリーンの瞳でジロリとレオンハーレンを睨みつけた後、ジルは瞬時にしてその場から駆け去った。
脂汗を全身から噴き出し、レオンハーレンは暫くの間身動き一つ取る事ができない程に、ジルの凄まじいまでの殺気に恐怖した。
「化け…物め、一体何をする気だ!? ベルーノ、奴を追え!」
ベルーノは剣を抜き、ジルの後を追った。
その後ろ姿を、レオンハーレンは肩を上下させながら見つめ、共にジルを追う事はせず、ふらつく足取りで、動かなくなったヒルデの元へと赴いた。
辺りはしんと静まり返り、はらりはらりと深緑色のイチョウの葉が音も無く舞い落ちて来る。
動かなくなってしまったヒルデの身体の上にも、イチョウの葉は、まるで彼女の死を悼んでいるかのように舞い落ちた。
「一体、どういうことだ。何故そなたが……? あの化け物の仕業なのか? それとも、私がそなたの命を奪ってしまったのか?」
震える指先でそっとヒルデの頬に触れ、レオンハーレンは泣き叫んだ。
望まぬ結果となってしまったその全ての責は自分にあると、己を呪った。
悲痛に満ちた彼の声は、静まり返った夜空に吸い込まれ、ぽたり、ぽたりと両目から零れ落ちる雫がヒルデの頬を濡らした。
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