第14話 二人

 ハイリガークリスタル学園の裏手に広がる森の奥。透き通った水がこんこんと沸く泉の畔で、ヒルデは学園が終わる放課後に、準備をしてきた敷物を敷き、読書を楽しむ事が日課となっていた。

 大イチョウの木の下で、ちょろちょろと泉から小川へと流れる水の音を耳にしていると、現実世界のあの神社に居る様な気分になり、心から安心できる。


「お前さん、また来てんのか。暇人か?」


 ヒルデは顔を上げ、にこやかな笑顔を向けながら現れたジルを見つめた。緩やかな黄金色の髪が眩い程に美しく、端整な顔立ちを引き立たせているものの、相変わらず態度はその見た目に全く以て似合っていない。


「邸宅よりもここに居た方が落ち着くのよ。邪魔かしら?」


ジルは少し考えた後、僅かに小首を捻った。


「邪魔な気もするんだが、お前さんが来る事を何気に楽しみにしているような気もするんだよな」


ジルはそう言いながらヒルデのすぐ隣へと腰かけた。そして身を乗り出して身体を近づけると、ヒルデが読んでいる本を覗き込んだ。


「また植物図鑑か。お前さん、そんなに植物が好きなのか?」

「そうね。この花はどんな香りがするのかしらって想像すると楽しいわ」

「香り……」


 ジルは僅かに身を退いた。その様子にヒルデがクスリと笑ったので、ジルは苦笑いを浮かべた。


「いや、煙草臭いって前に言われたし……」

「慣れたわ」


——それに、ジルの匂いはなんだか嫌いじゃないもの。


「お前さんは何だかいつもいい匂いがするよな」

「ラベンダーの精油よ。薔薇の精油も混ぜているわ」


 ヒルデは嬉しそうに微笑むと、パラパラと植物図鑑のページを捲り、指さしてジルに見せた。

 ジルは図鑑を覗き込もうと身を乗り出して、ヒルデから香る匂いをすぅっと吸い込んだ。


「ラベンダーはシソ科のハーブなのよ。リラックス効果があるの。『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン』っていう修道女が治療の為にハーブを活用して、その効能を説いた事で有名なのよ。なんだか私の愛称と似ているから、勝手に親近感が湧いちゃって」

「お前さんの為の匂いみたいだな」


ジルの言葉にヒルデは「そうなの、良いでしょう?」と言って機嫌良さげに微笑んだ。


「植物は偉大だわ。人を癒す力があるんですもの。神様に近い存在だと思わない?」


 ヒルデの言葉を聞き、ジルはエメラルドグリーンの瞳をパチパチと瞬かせ、気まずそうにつっと目を逸らした。

 新緑色のイチョウの葉がヒラヒラと落ちて来て、ヒルデのスカートの上に蝶が止まるかのように乗った。ヒルデはそれを摘んで持ち上げると、ジルに笑顔を向けた。


「知ってる? イチョウの葉にはギンコライドっていう香り成分があるの」

「……へぇ? 銀杏の実は臭いって嫌われるけどな」


ヒルデはくすくすと笑うと、イチョウの葉を大切そうに見つめた。


「この木は雄だから、実がつかないでしょう?」

「う……? まあ、そうだけど……」

「ギンコライドは様々な健康効果があるから重宝されているのよ。素晴らしいことだわ。医療品として扱う国だってあるくらいなんだから」


 ジルは何やらこそばゆい様な目でヒルデを見つめた。が、ヒルデは手に取ったイチョウの葉をポイと捨てて、植物図鑑へと視線を向けた。


「重宝されてるんじゃねぇのかよ!? なんで捨てるんだ!?」


 ヒルデは不思議そうにジルへと視線を向けた。唇を尖らせて、いじけた様な表情を浮かべている様子に小首を傾げる。


「どうして怒っているの?」

「だって、ゴミみてぇに捨てるからっ」

「ただの落ち葉じゃない」


ヒルデにはジルがどうしていじけているのかさっぱり分からなかったが、その様子が何やら可愛らしく見えて微笑んだ。


「ジルったら、イチョウが好きなの?」

「は!? いや、そういうわけじゃ……なんつーか、うーん……」

「私はとても好きだわ。現実世界に居た時から大好きな木なの」


ヒルデの言葉にジルは顔を真っ赤にした後、ヒルデから視線を逸らし、「……おう」と、小さく呟いた。


「私、毎日の様に神社に通って、大イチョウの木の下の手水者の隅に居座っていたわ。だから、その場所に似ているここが、なんだか懐かしいというか、落ち着く場所というか」


「……え」


 ヒルデは植物図鑑のページを捲った。長い銀髪が肩から零れて本の上へと落ちたので、さらりと後ろに追いやった。少し強めの風が一瞬だけ吹き、ヒルデは「あっ」と小さく声を上げた。

 銀髪が揺れ、図鑑のページがパラパラと捲れる。


「もう、ページが進んじゃったわ。えーと……」

「なあ、お前さんの現実世界での名前はなんて言うんだ? エルメンヒルデはこの世界での名前だろう?」


ジルの問いかけに、ヒルデは一瞬ピタリと息を止めた。


「……どうしてそんな事を聞くの?」

「いや、ちょっとばかし気になってな」

「私の名前なんか聞いたって何の得も無いわよ」

「教えてくれたっていいじゃねぇか。減るもんじゃねぇだろ?」

「もう終わった人生の事なんてどうだっていいじゃない」

「けど、お前さんの本当の名前だろ?」

「名前なんかどうだっていいわよ!」


 少し、声を荒げてしまい、ヒルデはハッとして口を閉じた。素っ気な過ぎただろうかと心配になって顔を上げると、ジルは寂しげに泉を見つめていた。


 光り輝く水面が、ジルのエメラルドグリーンの瞳に映る。それはまるで泣き出しそうな顔に見え、ヒルデは思わず口を開いた。


「……愛莉あいりよ。誰からも愛されてなんかいないのに『愛』だなんて名前が馬鹿げてるから、恥ずかしくて言いたく無かっただけなの。ごめんね、ジル……」


——この名前を、誰がつけたのかすら私は知らない。母がつけたのか、父がつけたのか。それともどちらかの祖父母なのか。

 けれど、そんな事もどうでもいいくらいに私は誰からも愛されなかった。

 ただただ、恥ずかしくて惨めなだけの名前だわ……。


 ジルが、ヒルデを抱きしめた。


 ヒルデは突然のことで何が起こったのか分からずに、膝の上に置いていた植物図鑑を落としてしまった。

 ドサリと重そうな音が鳴り、その拍子に本が閉じた。


「ちょ、ちょっと! 突然何!?」

「……ははは。何だろうな?」

「は!? 理由も無く何してんのよ! 放してよ!!」


 ジルは直ぐにパッとヒルデから離れると、いつもの調子で笑った。ヒルデは顔を真っ赤にして頬を膨らませ、ぎゅっと握りしめた拳をぷるぷると震わせた。


「きゅ、急に何するのよ!? びっくりするじゃないっ!」

「や、ちょっと……なんか衝動に駆られたっつーか?」

「何よそれ!?」

「あー、えーと。相変わらず、揶揄からかい甲斐があるな?」

「揶揄ったの!? 酷いわっ!」


 憤慨するヒルデを前に、ジルはケラケラと笑いながらぐっと伸びをし、そのまま大地へとドサリと寝そべった。


「……うん、世界は狭いな?」

「言っている意味が分からないわよ!?」

「そっか。お前さん、死んじまったのか」

「は!?」

「エルメンヒルデ・ハインフェルトに転生したってことは、現実世界で死んじまったってことなんだろう?」

「まあ、そうね」


ふ……と、僅かにジルの呼吸が乱れる音が聞こえた。


「……なんて、不憫な…………」


 ジルはそう言うと、震える唇を噛みしめて言葉と止めた。ヒルデは突然変わったジルの様子に、一体何事なのだろうと不思議に思い、そっと彼の肩を指先でつついた。


「ジル? どうかしたの?」

「お前さんは、俺様が嫌いか?」


その言葉に、ヒルデはポカンとして一瞬言葉を失った。


「どうしたの!? いつも変だけれど、今日は特別変よ?」

「答えてくれよ、俺様が嫌いか?」

「……嫌いじゃないけど、でも、べ……別に、好きでもないわ」


 それはヒルデの虚勢から来る言葉だった。

 両親からでさえ愛されなかった自分が、誰からも愛されるはずがない。それならば自分も誰かを愛する様な事はしたくはないと、ずっと思っていたからだ。


 もしも拒絶された場合、やはり自分には価値が無いのだと、そう再認識してしまうのが恐ろしかった。


「そっか。嫌いじゃないんだな?」

「え? ええ、そうよ?」

「……そうか。よし」


 ジルは片手を枕にし、ゴロリと身体の向きをヒルデの方へと向けると、にっかりと笑った。


「俺様、この世界はクソつまんねぇって思ってたんだが、お前さんのお陰で少し楽しくなってきた」

「何よそれ。気楽でいいわね。私は寿命があんまり残されてないのに」


 不貞腐れたヒルデに、ジルは「聖なる力はもう使わねぇこったな」とあっけらかんと言った。


「もし、次に瀕死の奴を癒そうもんなら、お前さん、寿命が尽きて死んじまうぜ?」

「恐ろしい事を軽々しく言わないでくれるかしら!?」


悲鳴の様に言ったヒルデを宥める様に、ジルはエメラルドグリーンの瞳を細めて見つめた。


「だからさぁ、折角なら楽しもうぜって言ってるんだ。学園の授業とか、何か楽しかったものとかねぇの?」


ジルの言葉にヒルデは小首を傾げながら考え込んだ。


「本格的に授業が始まる前に休園になっちゃったもの。そんなの分からないわ」


「でも……」と、ヒルデは言葉を続け、ニコリと微笑んだ。


「ダンスはとても楽しかったわ! 運動は健康な身体だからこそできることだもの。ステップが綺麗に成功した時の達成感は、本当に素敵ね!」


 現実世界では踊る事など以ての外、着飾る事すら一度も無いまま人生を終えてしまったのだ。

 ジルはヒルデの言葉を聞くと、嬉しそうに笑みを向けた。その表情に、ヒルデはキョトンとし、瞳を瞬いた。


「ねぇ、どうしてそんなに嬉しそうなの?」

「うん? ……へへへ、何でだろうな? お前さんが嬉しそうだからじゃないか?」


 現実世界で、自分が嬉しそうにしていると父は機嫌を損ねた。自ずと父の前で笑みを浮かべる事をしないようにと気を付けるようになり、次第にそれは癖になっていった。


——ジルは、父とは全く違うのね……。


「……ありがとう、ジル」


——貴方は、私という存在を認めてくれているみたいだわ。


お礼を述べたヒルデに、ジルは笑みを浮かべたまま僅かに頷いた。


「俺様の方こそ、ありがとな、愛莉」


 微笑み合う二人を包み込むかのようにふわりとした風が吹き、ヒルデの銀髪とジルの黄金の髪を撫でつけた。


 それはまるで、二人の未来を応援する追い風の様だった。

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