第10話 無実なんですっ!

「お母さん、この花は何ていう名前なの?」


 幼少の頃、道端に咲く花を指さしては、母に尋ねた。花が好きな母は、私の問いかけに対し、どんな雑草であろうとも答えてくれた。


 母が居なくなって随分と経った頃、学校の図書室から植物図鑑を借りて来た。神社の手水舎の側でそれを広げ、期待に胸を膨らませながら読み進めたのを覚えている。


 けれど、おぼろげな記憶の中で母が教えてくれた花の名は、どれもでたらめだった。


 最初はそれが信じられなくて、本に嘘が書いているのではと疑った。


 疑うべきは、『母の愛情』だったというのに……。


 そうだ。愛していたのなら、私を暴力的な父の元に置き去りにして居なくなるはずなどないのだから。


 絶望し泣きじゃくっていると、新緑色のイチョウの葉がヒラヒラと舞い落ちて私の頬を撫でた。

 その神社の象徴ともいえる大イチョウの大木が、私を慰めてくれている様な気になった。

 瞳を擦り、植物図鑑をパラパラと捲り、イチョウのページを見てみた。


『公孫樹』『Ginkgo biloba』『maidenhair tree』


 植物には沢山の別名がある事を知り、私は顔を上げた。


 新緑色の沢山の葉が揺れ動き、空をも覆い尽くす生き生きとした様は壮観で、本を閉じ、暫くその様子に見入った。



◇◇◇◇



 ヒルデは気まずい顔をしながら、震える手でティーカップを持った。目の前のソファには黒髪の男が座っており、ヒルデから視線を外したまま仏頂面を浮かべて黙り込んでいる。


 ベルーノ・グラルヴァイン。侯爵家の嫡男であり、第一王子レオンハーレンの乳兄弟でもあるこの男が、突然ヒルデの邸宅に訪問したものだから、慌ただしく客間の準備を整えたというのに、かれこれ一時間もこうしてだんまりを決め込んでいる。

 流石のヒルデもそろそろ我慢の限界が見えて来た。


——ゲームとしてプレイしていると、こんな失礼な事をする人じゃなかったのに。結局ヒロイン相手にだけは皆紳士的なんだってことなのね。


 ヒルデの記憶では、ベルーノがこの公爵邸に訪れるイベントは確かにあった。

 エルメンヒルデの悪行を戒めに訪れた訳だが、ゲームのストーリー上では、エルメンヒルデはベルーノに顔を合わせる事なく追い返している。

 とはいえ、今回ヒルデは慎ましく平和な学園生活を送る為、ヒロインを虐めるような事は疎か、できるだけ近づかない様にしている。

 そもそも学園開始三日で休園となってしまっている為、ベルーノに戒められる様なことなどしようがないわけだが。


 コホン、とヒルデが咳払いをし、四杯目の紅茶を啜った後、じっとベルーノを見つめた。


「ね……ねぇ、こんなところに居ないで、殿下のお側に居たら? 貴方だって暇じゃないんでしょ?」


 ヒルデの言葉に、ベルーノはハッとしたように視線を向けた。艶やかな黒髪が揺れ、黒曜石の様な瞳で真っ直ぐに見つめられると、ヒルデは不本意ながらドキリとした。

 ベルーノというキャラクターは本来、騎士道精神を重んじる紳士的かつ優しいキャラクターだ。そんな男性が側に居てくれるヒロインに憧れを抱いていたヒルデは、自分が悪役である事を思い出し、ズキリと胸が痛んで俯いた。


——ゲームをプレイしていた時は、ベルーノが一番の推しだったのだけれど。今は恐怖でしかないわ。憧れている人に嫌われる役だなんて、最悪よ……。


「疑っているのでしょうけれど。私、悪い事なんかしていないわ」


 泣き出しそうな声を放ったヒルデに、ベルーノは慌てて口を開いた。


「ちがう! ……その、今日は詫びに来たのです」


 彼は顔を真っ赤にし、重そうに唇を動かしている。目の前に並べられたお茶菓子には一切手をつけられておらず、お茶の替えも断っていた為、とっくに冷めきったお茶がカップの中で揺らいでいる。


「エルメンヒルデ嬢。あの様な狼藉を働き、申し訳ございませんでした」


 深々と頭を下げるベルーノを見つめ、ヒルデはきょとんとして瞬きをした。


「『狼藉』って、何のことかしら?」

「……え?」


 再び客間がシンと静まり返り、ベルーノは気まずそうにヒルデから視線を外した。が、すぐにまた視線をヒルデへと戻したので、今度はヒルデがベルーノから視線を外した。


「その……アルフレート・バーダーが谷に落ちた件で、私は貴方を疑い、一方的に犯人と決めつけて生徒会室に乱暴に連れて行きました。なんとお詫びすれば良いことか……」


ベルーノの言葉を聞き、ヒルデは引き攣った笑顔を浮かべた。


——それ、二週間前の話よね!? 今更!?


 ヒルデはあの日以来アルフレートと共に登園することを止め、休園となってからは悠々自適に平和な日々を過ごしているのだ。


 この平和を崩される訳にはいかない。


 つまりは、これ以上攻略対象達やヒロインに関わる訳にはいかない、とヒルデはキリリとした真顔をベルーノに向けた。


「謝って頂く事など何一つございませんし、全く以て安心安全快適に暮らしておりますのでご心配なく」


——それに、ただ腕を引っ張られただけで、殴られた訳でも何でも無いんだから、謝る必要なんて一切無いわ。この人、律儀過ぎじゃないかしら?


 ヒルデの感覚は普通よりズレている為、ベルーノの罪悪感が理解できなかっただけなのだが、ベルーノにとってはそれこそが謝罪を拒絶される程に彼女を傷つけてしまったのだと困惑した。


 そもそもこのようにソファに腰かけたまま謝罪をしようという自分は、なんと愚かなのだろうと考えて、慌てて席を立った。

 その拍子に、テーブルに膝が当たり、ベルーノに出された冷めきったお茶の入ったティーカップを倒してしまった。


「あら、大変だわ!」


ヒルデはベルーノの服が汚れたとあっては大惨事になると恐れ、慌てて立ち上がった。


「いだっ!!」


 二人が同時にティーカップに手を伸ばした為、火花が散る程に強く互いに頭突きをしてしまい、ヒルデは品の無い悲鳴を上げた。


——し、死ぬほど痛いっ! でもそれよりも最悪だわ! 攻略対象に頭突きしてしまったなんて悪行が知れたら……。


 ヒルデの脳裏に怒り狂ったベルーノが現れ、『悪者め! 断罪だ!』と叫び、外野が『そうだそうだ!』と声を上げる妙な映像が浮かび上がった。


——この世界はゲームの世界だもの。そして私は悪役令嬢エルメンヒルデ・ハインフェルト。小さな小石が予想もつかない程の大岩となって返って来る危険性があるわ!


「あわ、あわわわわわ!! ご、ごめんなさいっ!! 命だけはどうかっ!」


 必死になって土下座するヒルデを、ベルーノは呆然として見つめ、ハッとして自分もその場に土下座した。


「いや、あの! 公爵家のご令嬢に……しかも殿下の婚約者であるエルメンヒルデ嬢に頭突きをしてしまい、こちらこそ……」

「どうしましょう! 殺さないでっ!!」

「……は?」

「私はただ平和で健康に生きたいだけなの!」

「……えーと?」


戸惑うベルーノにお構いなしに、ヒルデはパニック状態になりながら言葉を発した。


「貴方の妹を泉に突き落としたのも、言っても信じてはくれないだろうけれどあのままだと魔物に襲われて食い殺されてしまうからであって、そうなったら私が魔物をけしかけたからだと疑われるだろうからそうしたんだけれど! それでも突き落とした時の手の感触が残って罪悪感に苛まれて毎日夢に魘されてるの!」


 ヒルデがこうもパニックに陥るのには理由があった。

 ゲームのストーリー上で、エルメンヒルデが行った悪行を無かった事にしようと必死だったわけだが、どう足掻いても『悪役』という肩書から離れる事が出来ず、結果的には偏見を強くさせてばかりいたのだ。


「その、エルメンヒルデ嬢。私は……」


戸惑うベルーノの前で、ヒルデはハッとした様にサファイアブルーの瞳を見開いた。


「ああ! そうよ! 聖なる力で頭突きの傷を癒せばいいんだわっ! ちょっとくらい寿命が縮んだって、死ぬよりはずっとマシだものっ!」


ヒルデは妙案だと言わんばかりに手を打つと、土下座の体制から両手を伸ばし、ベルーノの頭をがっしりと掴んだ。


「な……!? い、一体何を!?」


 元からお堅い性格であるベルーノは、女性に触れられる事自体不慣れである。

 顔を真っ赤にしてヒルデから逃れようとしたが、ヒルデはがっしりと掴んだまま決して離そうとはしなかった。

 その力は女性のものとは思えない程で、ベルーノはその細腕のどこにそんな力があるのかと驚いた。


「いいから動かないで!」

「お待ちください、一体何をするつもりです!?」


 ヒルデの両手から癒しの光が放たれる。ベルーノは唖然としたまま、自らの頭部の痛みが和らいでいくのを感じた。

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