第17話 旋律に消える泡沫

 ニクセリーヌの夜はとても暗い。月明かりがある水上ですら暗闇に沈むのだ。その下は何もなければ本当の漆黒だ。深海に届かない光がとても恋しく感じる。ぽつりぽつりと灯されている海月のランプがなければ、とても歩くことはできないだろう。

 さすがに城が自宅ということもあって、ジェフのおかげで城には何の問題もなく入ることができた。人魚の暮らすニクセリーヌには硬い床は必要ないのだろう。砂が敷き詰められた床をふわふわと踏んでは浮かぶようにして進んで行く。


「なんだか俺たちドロボーみたいだな!」


 はしゃいだチッタがジェフにたしなめられたその時、ティリスが物音に気づいて、あたりを見回す。

 咄嗟に近くの部屋に隠れた結衣菜たちのすぐ近くをおそらく貴族であろう男二人が談笑しながら通り過ぎていった。

 胸を撫で下ろしたその時、置いてあった書類を眺めていたガクが「おいこれ!」と声を上げ、彼が手にした紙切れを受け取ったティリスが眉をひそめた。


「何が書いてある?」


 隠そうとしたティリスに、ジェフは半ば奪い取るようにそれを手にしたが、顔色が悪くなる。


「どうしたのー?」

「……父の臣下への暗殺の指示だ……私と、レミアの……」


 とぼけた声で「あんさつ?」と問うたチッタに説明はせず、ティリスは珊瑚の森の方角を指差した。


「急がないと、レミアさんが危ないわ。行きましょう」


***


 結衣菜たちが青藍の真珠牢に着いたのは城で暗殺の命令を知ってすぐのこと。先刻閉じられていた牢の扉は開かれており、レミアの姿は見えなかった。青白く光る貝殻の街灯が不気味な雰囲気を醸し出していた。


「ジェフロワなの……?」

「レミア! レミア! どこにいるんだ!」


 ジェフロワはレミアの声を聞いて辺りを泳ぎ回る。それに答えたのは低い声だった。


「ここだ。……ジェフロワ、我が息子よ」


 姿を現したのは立派な髭をたくわえた初老の人物。左手には大きな三つ又の槍を携え、正に海の王と言った出で立ちの彼は本来ならば聞き惚れるだろう低く深みのある声だったが、結衣菜にはとても不気味に聞こえた。


「父上……!」


 その隣にはおそらく臣下であろう人物が立っており、レミアの首を捕らえる真珠の鎖を引いていた。

 もう片方の手にも何かの鎖を持っていたがその先に何が繋がれているかは光の届かぬ夜の海の中では暗闇に隠れて見えなかった。


「……何をしに来たのだね、こんな夜更けに。よそ者まで連れてくるとは」

「あなたの不正を暴きに来ました」


 まっすぐに見つめる彼に王はほう……と呟き、その長い髭に手をかける。余裕のある表情。


「不正だとな……この私がか?」

「証拠はある。……とにかく、レミアを離してください父上」


 ジェフがそういうと王は突然笑い出した。

 レミアが不愉快そうな視線を向け、ジェフロワは目を細めた。


「……なにがおかしい」

「お前が私に指図するとはな。思い上がりもいいところだジェフロワ。いつからそんなに偉くなったのだ」

「下手な親騙りの芝居なんてしてないでやるなら早くやったらどう? アートス。あなたの実の妹、私の母である女王を殺したときのように」


 挑発するように語るレミアの言葉に、アートス王は眉を寄せた。

 苛立ちを隠さないそれは勝利を確信している男の表情だ。


「余計なことを言うな、レミア。お前も今の自分の状況がわかっていないようだな」


 レミアの首にかかる鎖を引く臣下の力が強くなった。苦しそうに顔を歪めるレミアを見てジェフが叫ぶ。


「いい加減にしろ! どれほどの人を苦しめたら気がすむんだ!」


 何がおかしいのか、再び王の笑い声が珊瑚の森に響き渡る。


「そんなに死にたいなら、殺してやろう。いいかげんお前のその馬鹿な顔も見飽きた。おい、ダートン」


 名を呼ばれた臣下がもう一方の鎖を引くと、大きな唸り声があたりに反響した。何かの鳴き声のようなその声の後、それは姿を現した。

 巨大なナマズのような体にクジラと同じ大きな口、その中にはサメのような鋭い歯が無数に並んでいた。歯は一体何列あるのだろうか、少なくとも十列以上はあるように見える。あんなのに噛まれたらひとたまりもないと結衣菜は身震いした。


「先日捕らえてきたワァルフィクだ。私の命令にだけ従う」


 魔物が再び大きな咆哮をあげ、海水が地震でも起きたかのように微細な振動を始める。


「これはまずいぞ……」

「あれを知ってるの?」

「いや、俺もわからないけど……俺たち、海の中じゃただの餌だぞ!」

「じゃあどうすればいいの? このままじゃ食べられちゃうよ!」

「そんなこと言っても殴るしかないだろ!」

「みんな落ち着け!」


 ジェフはどこから取り出したのか、大きな光る槍を構えていた。


「私がどうにかする! 君たちはレミアを助けてくれ!」


 頷いたチッタが素早く動いた。気づいたダートンがレミアの鎖を再び引っ張り、その反動でワァルフィクの鎖が切れる。


「全く! 何も考えずに動くから!」


 悪態をついたティリスがチッタを助けに回った。

 そのとき、アートス王が何かを呟き、ワァルフィクがティリスめがけて尾を振り下ろす。ガクが彼女の腕を引き、間一髪のところでその攻撃を避けた。

 海底に尾を打ち付けて一瞬動きが止まったワァルフィクに今度はジェフが槍を突き立てる。

 悲痛な叫びをあげるそれに王はまた何かを呟く。ワァルフィクが今度はジェフに向かっていき、一度は避けたジェフだったが連続した攻撃にやられ動きが止まる。噛み付かれたようだ。

 肩からは鮮血が流れ、じわじわと水の中に広がって行く。レミアの悲鳴が聞こえた。

 魔物は血の匂いに興奮しているように見えた。

 その時、チッタが臣下を文字通り殴って気絶させ、ティリスが彼女の鎖を切る。

 レミアは慌ててジェフロワを助けに飛び出そうとするがらティリスが彼女の腕を掴んで止めた。


「来ちゃだめだレミア! 危ない!」

「どうして! あのままでは死んでしまうわ! 離して!」

「あなたまで死んでしまいます!」


 必死に止めるティリスにレミアは食い下がらない。


「私なんかが死んだって構わないわ! どうせ世間からは忘れられた存在だもの!」

「そんなことを言わないでくれレミア。私は……」


 ジェフが何か言葉を続けようとしたその時、低いバスの声が聞こえ、禍々しい旋律が夜の海に響いた。

 アートス王の旋律だ。

 ワァルフィクが先ほどよりも増して暴れだし、アートス王の目の前に大きな水の渦が回り始めた。

 段々と早く激しくなっていく水の渦に砂や海藻が巻き込まれてゆく。


「みんな離れろ! 巻き込まれたらひとたまりもないぞ!」


 ガクのその言葉にみんな散り散りになったが、あろうことか水の渦は結衣菜めがけて移動していく。

 絶体絶命の彼女が目を瞑ると、聞き覚えのある声が聞こえた。

 懐かしくも美しい、そしてどこか哀しげな感情を含んだ旋律。

 結衣菜が目を開けるとすぐ目の前まで迫っていた水の渦は目の前で泡へ変化し散り散りになっていた。まるで旋律に溶けたかのような泡沫が美しくも見える、そんな光景。

 一瞬時間が止まってしまったかのようなその時、けたたましい獣の咆哮が聞こえた。ジェフがワァルフィクを仕留めたのだ。動かなくなったそれに悪態を付いて逃げようとした王をティリスが捕らえた。


「これで、終わったのね……」


 レミアの安堵した表情が、事態の収束を告げたのだった。

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