第15話 海への誘い

 一行は急いで移動を始めた雨が止んだ深影の森では運よく魔物には出会わずスピィンネも追いかけては来なかった。しかし、粘着質なスピィンネの糸はなかなか取ることができず、ティリスはかなり落ち込んでいた。


「あともうすこし!」


 走り出したチッタを追いかけ森を抜けると、突如として眼前に眩い景色が広がった。晴天の下に輝くのは大海原。水平線に続く透明度の高い水は美しく煌めいている。


「すごい! 海だ!」

「私もこんなに近くで見るのは初めてだわ……こんなに広いのね……」


 感嘆の声を上げるティリスの横でガクは怪訝な顔で首を傾げる。肩に乗ったヴィティアが彼の頬を舐めた。


「どうしたの? ガク」

「あ、いや……。来たことないはずなのになんだかこの景色、見たことある気がして。おかしいなぁ」

「忘れてるだけじゃねーのー?」


 ガクはまだ訝しげだ。結衣菜は何かを見つけて指を差す。

 それは海の上に浮いた玉だ。太陽の光を反射してキラキラと輝いている。


「あれは何?」

「あれは多分、ニクセリーヌの名物、浮き水よ。日を反射して輝いているのね」

「水が浮いているの?」

「ええ、そう聞くわ。なんでも、魔法の一種なのだとか」

「じゃああの水の玉のとこまで行けばニクセリーヌに着くってことだな!」


 かけ出したチッタを追いかけて砂浜に出ると、ニクセリーヌという国の美しさが次第に露わになる。

 広がる透明度の高い海の中には色とりどりの魚が泳ぎ、海の奥には建物のようなものが続いている。浮き玉が海面の上を浮き、その中にも泳ぐものがあった。人の姿の上半身に魚のヒレを持った下半身……。


「人魚!」

「ニンギョ?」


 結衣菜は元の世界ではおとぎ話にしか出てこない美しいその姿に目を輝かせたが、チッタは初めて聞く言葉に首を傾げた。時折彼らが水と水の間を移動する水音が心地よいリズムを奏でている。


「あの人たちは?」

「彼らはそう、おそらくニクセリーヌの人たちね。果たして歓迎してくれるかどうか」


 ティリスはスイフトの背を撫でると目を細める。彼女の心配をよそに、チッタの疑問が投げかけられる。


「どうやってこの国を通り抜けるのー? ここを通らなきゃテーラにはいけないんでしょ? 水の中だぜー?」

「あたし泳げない……」


 結衣菜の言葉にガクは驚愕の表情だ。それもそうだ。鍾乳洞では結衣菜も泳いだのだ。


「泳げなかったの?」

「うん……」


 ガクは焦ったように謝り続ける。結衣菜はどうにかなったから大丈夫、と返して笑った。


「そういやティリスはもう大丈夫なの? 蜘蛛」

「えっ。あ、ええ……大丈夫。ごめんなさい、全然役に立てなくて」

「そういえば、なんで蜘蛛が苦手なの?」


 結衣菜のそれは純粋な疑問だ。それには本人ではなくチッタが答えた。


「昔ディランと俺と遊んでた時にあんな感じの魔物に襲われたんだよ。あれよりもっとちっちゃかったけど」

「ディラン?」

「ディランはチッタと同じ、私の幼馴染で……」

「ティリスと結婚するの!」

『結婚?』

「うん、この前手紙きてた! あれ、もうしたんだっけ、まだだっけ?」

「ちょ、ちょっと待ってチッタ! 確かにディランは私の婚約者……だけど。彼は今行方不明で……」

「いないの?」

「ええ、なにがあったのか……」


 婚約者が行方不明というのはティリスは相当辛いだろう。しかしチッタは全く心配する様子はない。いつもの通りの能天気な声が飛ぶ。


「まぁあいつなら大丈夫だろ!」


 ティリスはなおも心配そうだ。

 気まずそうに視線を逸らしたガクは話題を蜘蛛へと戻す。


「でも意外だな。怖いもんなんてなさそうなぐらい強いのに」

「ティリスは雷も苦手だぜ! 耳塞いじゃうの!」

「ちょっとチッタ! 余計なこと言わないで!」


 顔を赤くしていうティリスを見てガクが笑い少し和やかな雰囲気が戻ってきた。しばらく談笑を続けていると、どこからか男の人の声が聞こえた。


「助けてください!」


 皆、一瞬顔を見合わせる。すぐにどこからの声なのか明らかとなった。

 海だ。

 ニクセリーヌの街が続いているその方向、一行のすぐ近くの海に、彼はいた。


「旅人さん達、どうか僕を助けてください!」


 真っ赤な髪に褐色の肌。深い碧色をした瞳とそれと同じ色味を帯びた魚の尾。半身を砂浜に乗り出したニクセリーヌ族の彼は再び、結衣菜たちにその声を向けたのだった。彼の表情はとても緊迫したものだった。


「助けてください!」

「助けてくださいって……」


 ガクが戸惑っていると、ティリスが彼に近づく。ブーツに波がかかる位置まで出た彼女は恭しく礼をした。

「私はティリス・バスティード。ディクライットから来た旅人です。東方のテーラへと向かう道中其方の国を通らせていただきたく思い、訪れました。お話の前にまずあなたのお名前を教えていただいてもよろしいでしょうか?」


 青年はハッと息を呑むと尾びれを翻した。そして姿勢を正すと、再びまっすぐと一行を見据えた。


「すまない、これは失礼なことをした。私はこの国に住むジェフ……ジェシーだ」

「……では、ジェシーさん。ただの旅人である私たちに一体なにを助けて欲しいと言うのですか?」


 ティリスは言葉こそ丁寧な対応だが、名前を言い直した青年に対して彼女は明らかに彼への不信感を募らせている。隠しもしないその態度に、ジェシーは気づいているのか、話をつづけた。


「……助けて欲しい人がいるんだ」

「……人?」


 ガクも怪訝な表情を示したが、頷かれてしまっては聞き間違えとするのも難しい。


「だれをー?」

「その人は……彼女はこの国の奥、だれも立ち入らないサンゴの森の中、青藍の真珠牢に捕らわれているんだ」

「捕まってるの?」


 チッタの質問に頷く彼にさらにティリスの不信感は増すばかりだ。


「でもなぜ、ニクセリーヌの人たちではなく、見ず知らずの私たち旅人に頼むのですか?」

「それは……」


 彼女の態度は少し厳しかった。助け舟を出すようにガクが口を開く。


「ちゃんとした説明がないと協力できないよ」

「……この国の者には頼めないんだ、わかってくれ」


 そういった彼の目はそれ以上聞いて欲しくないと言わんばかりにティリスの視線を避けた。

 結衣菜にはジェシーの目的がなんなのかということよりも大事なことがあった。


「ちょ、ちょっとまってよ! その人を助けるとしても、あたしたちどうやってあなたたちの国に入るの? 水の中だよ?」

「大丈夫だ、それなら問題ない。この国全体には水中でも僕たち以外の人間が息できるようなある種の巨大な魔法がかけられている。ここはいずれ観光都市になる国だ」

「そうなんだ……ならいいんだけど」


 結衣菜はまだ不安そうだった。しかし、チッタの明るい声が彼らの方針を確定させた。


「じゃあとりあえずその捕まってる人のところに行ってみようぜ!」


 それぞれの理由で中々気がすすまない一行は、ジェシーについていくことになったのだった。

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