天の花筏、ふるふる

山寺

天の花筏、ふるふる

 どしんとそいつがシンクを満たしたとき、脳は思考をやめていた。いぼだらけの体をむちむちと窮屈そうに動かし、まるで自分は被害者だとばかりに独特の匂いをあたりに漂わせている。一体だれがこの名状しがたい匂いを山椒だと言ったのか。ぬるぬるする体を慎重に虫取り網に誘い、そこでようやく、私の頭は事態に追いついた。

 台所の蛇口をひねったらオオサンショウウオが出てきたせいで、私はお気に入りの食器を一枚、新聞紙に包む羽目になったのである。

 張本人ーー否、張本魚ーー否。オオサンショウウオは魚類ではない。世界最大の両生類なら張本両生になるのだろうか。ともかく皿を割った当のオオサンショウウオは、湯を換えていない浴槽でぬーんと身をくねらせている。

 一般家庭の浴槽ごときでは物足りないのだろう、大きな口が縁から顔を出す。今日ほど台所と風呂場の近さに感謝したこともない。オオサンショウウオが脱走の気を見せるたびに私は網をふりかぶる。スーンと顔を引っこめるオオサンショウウオと攻防しながら皿だったものを新聞紙に集めた。

「皿一枚で済んでよかったじゃん」

 電話口の友人はカラカラと笑う。勤め先の水族館から来てくれるらしい。

 この友人はオオサンショウウオと合法でふれあいたいがために水族館スタッフになったキトクな人間だ。飼育スタッフは担当動物に似るというウワサがあるが、カメ飼いの友人は両生類より爬虫類の趣がある。

 私は新聞紙から破片がこぼれないよう丁寧に包みながら携帯のスピーカーに顔を向ける。

「気に入ってたやつだったんですけど」

「百均で買ったやつ?」

「ちがう。ドラッグストアのセール品。九十九円」

「ああ、例のオオサンショウウオの日の! 運命のお品物だね」

 そんな運命は腐れ縁というのだろう。皿は腐るのではなく割れたのだが。

 それに九月九日のオオサンショウウオの日付と皿の値段の数字がおなじだと友人が勝手に盛りあがっているだけで、白地に花が二輪寄り添って咲いている皿は一ミリメートルもオオサンショウウオに関係ない。花と花との間に亀裂が入ったのは、まぎれもなくオオサンショウウオのせいだが。

「それ捨てちゃう? 触媒にしてオオサンショウウオ召喚したいんだけど」

 私は返事につまった。

 新聞紙に包むのは捨てるためだ。このあと私はまぎれもなく、新しい家庭ゴミの袋の奥底に、この危険物を置くつもりだった。この皿だったものの上には、コーヒー滓とお茶っ葉の乾かしたヤツがふりかけられて、卵の殻、野菜の皮、鼻をかんだティッシュ、掃除機のパック等々が岩屋と化す。皿として生をまっとうしていたらおよそ載せることもなかった塵芥に押しこめられる。暗いなかさんざっぱら揺られた挙句、光だと思った最後のそれは焼却炉で轟々と燃え盛る炎ーー。

 急速な細胞分裂。身体の内側にぞわぞわしたものが繁茂する。空き家を覆った蔦は重さを増し、形だけの家をぐしゃぐしゃガラリと圧しつぶす。しだいに瓦礫の山が蔦のすきまから落ち、空洞が残る。ぽっかり空いた黒い口が、「お好きにどうぞ」と息をしぼりだす。動くことを思い出した秒針が、皿を買った日まで記憶を巻き戻す。

 そのお皿いいね。友人の一言が、皿にからまる蔦の種だ。私の胸をつぶす、未練の元凶だ。蔦を生長せしめる、光の粒だ。

 触媒にされるほうが炎に呑みこまれるよりずっといいかもしれない、と自分に言い聞かせた。オサンショウウオと皿を引き取っていく友人に、私から生えのびる蔦が縋っているような気がした。

 後日、友人が遊びにきた。身の丈ほどのオオサンショウウオを抱きかかえて。

 もちろん生きたオオサンショウウオではない。ぬいぐるみだ。在来種はおいそれと触っていいものではないし、特定外来生物の交雑種は生きたままの移動を法で罰せられる。

 私は友人に大山椒魚馬鹿と、もはやなんの生き物かわからないレッテルを貼り、家へいれた。友人はリビングのソファに、そこにあることが当然のようにオオサンショウウオのぬいぐるみを横たえ、自分は床に座った。私は立ったまま腕を組んで友人らを見下ろした。私の母が、ホームセンターで使いもしない木材を買ってきた父を諫める構図のようだと思った。

「それ前も買ったって言ってなかったっけ?」

「こんなんなんぼあってもいいですからね。まあでも、この子はこのうち用」

「ちょっと、私物ふやさないでよ」

 ぬいぐるみは何食わぬ顔をしている。また未練がふえる。ふわふわの表面を蔦がなでる。抱きしめるたび、友人のワクワクした顔が浮かぶにちがいないのだ。

「ちがうちがう。これはオオサンショウウオ代」

「別に私はオオサンショウウオを引き取ってもらうことで不利益を生じていませんが」

「まあまあ、そう言わず。オオサンショウウオなんて愛らしい生き物がいなくなったらさみしいでしょう?」

 私のまわりでそう思うのは目の前の友人くらいなものである。ため息をついた私に、友人は「それから、はい」とテーブルに紙袋を置く。私が皿を入れた紙袋だ。なかには皿を包んだ新聞紙ではなく、箱が入っていた。貼りつけてある紙には友人の住所と名前。送り主は大山窯。焼物の工房だろうか。ほのかに土の匂いがする。

「新しい皿なら気にしなくていいよ。百均で買ったやつあるし」

「んー? まあまあ、開けてみるだけ開けてみてよ。気に入らなかったら改めてもらってくからさ」

 爬虫類面の友人は目をキラキラさせて私が箱を開けるのを待っている。あの皿が、もうこの手にない現実を突きつけられた。身体中の蔦が萎びていく。

 もっと大事にしたらよかった。なんでもかんでもあの皿に盛るんじゃなくて、特別な日の、特別なご馳走のために、箱から出して、使ったら仕舞って。そうしたら、オオサンショウウオが降るなんでもない日に壊れることもなかったのに。

 かといて、私は目の前の友人の好意を無碍にはできなかった。私はとりあえず床に膝をつき、箱を開けた。くしゃくしゃの紙がひとつ、ふたつ、とテーブルに転がる。見知った二輪の花が顔を出す。花と花との間には、金の橋が架かっていた。

 天の川みたい。

 覆い被さる紙を取るのもわずらわしく、私は震える手で、皿の輪郭を探って箱から取り出した。心を冷たくさせた大きな割れは、くっついているのか心配するほど細い条で繋がっていた。傾ければ星のようにチラチラ瞬く。私の気づいていなかったヒビにもおなじような装飾が施されていた。上流から下流へ、下流から上流へ、泡沫のきらめきに私の目は釘づけになった。

「皿一枚で済んでよかった、なんて言ってごめんね」

 星間遊泳していた私は声の主に目を移す。爬虫類がちな目と合う。友人は、そのつぶらな黒目を伏せた。

「いつもあのお皿使ってたもんね。家に来たら蔦出てるし、ああ、わるいことしたなあって思ってさ」

 友人はすなおに謝った。しゅんとする姿はこちらまで申し訳なく思わせる。

 私のしなびてねじれた蔦は「いいよ。大事にしなかった私もわるかったし」と私の内側から口を動かした。自分の言葉で切り傷を負う私に友人は首を傾げた。

「大事にしなかった?」

「そうだよ。なんでもかんでもこの皿に盛るんじゃなくて、特別な日の、特別なご馳走のために、箱から出して、使ったら仕舞って。そしたらなんでもない日に割れたりなんかしなかった。毎日毎食、水切りカゴからとって、使って、洗って、また水切りカゴにもどして」

 声がのどと鼻の間に引っかかった。正しい音声になり損なった息が洩れる。目と鼻からボタボタ液体が落ちる。頭が熱い。

「拭いてるときに、今日もかわいいね、って。たべおわったら、ごちそうさま、って。洗いながら、今日もありがとう、って」

 友人がうちの箱ティッシュを私の手の届くところに寄せる。私はぼんやりする頭で友人のその動きを見ていた。友人が、私の手にその手を重ねる。

「毎日、使いたかったんだよね」

 ぎゅうっと、胸が苦しくなる。うん、うん、とのどのなかだけの声と、首の振りかたで私は同意を示す。

「ありがとう」

 私の震える声に、友人は微笑んだ。呼応するように身体に花を咲かせて。

「その人がこのお花なのー?」

「そうだよ」

 ざああ、と花冷えの風が舞う。墓標代わりの桜は青い空に白い花をいっぱいに咲かせ、やわらかい花の匂いは青い草の匂いと混ざりあう。

 私はレジャーシートの上で湯呑みに口をつける。手の内でぬるくなったお茶は、昔話に花を咲かせてかわいたのどをじんわり潤していく。

「おばあちゃんも死んだらお花になるの?」

「そうだよ。この木のとなりに植えてもらう約束なんだ」

「わたしも死んだらお花になるの?」

「そうだよ。私は種を埋めるか選べたけど、遺伝したおまえは選べなかったね。わるかったね」

 孫は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。その顔を神妙な面持ちに変えると私の真似をして腕を組み、頭を傾けて考えるそぶりをする。ハッとなにかに気づいた孫は私の湯呑みをのぞくなり、自分の湯呑みの中身をこちらに空けてしまった。続けてお代とばかりに私の皿からまんじゅうをひょいとつまんで口に放りこむ。

「おいし〜!」

 両手でほっぺたをもちっともちあげる孫に花が咲く。まるでこの世のしあわせをすべて一身に受けているような笑顔だ。

「わたし、このお花すきだから、いいよ」

 孫の言葉に顔がゆるむ。花びらがひとひら、金の条に降った。

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