「普通」になりたくて

 それからしばらく経った頃。ある日の一限。私にとっての一番嫌な授業が始まった。


「えーと、ここからの課題制作はグループワークになる。適当に三〜四人のグループを作ってくれ」


 先生が簡単そうにそう告げる。それが誰かにとってどれだけ難しいかを考えずに。


 静かに空気になるように息を潜めてしまう。そして、皆んなが殆どグループを組み終わった頃に、三人になれなかった人達が私に近づいてくる。


「あの……野中さん。一緒にグループを組んで欲しくて……」

「私も困ってたから嬉しい!ありがとう。あと、全然タメ口で大丈夫だよー!」


 無理やり絞り出した声は、ちゃんと明るくなっていただろうか。「余りもの」の自分でも、ちゃんと笑顔で対応出来ていただろうか。

 課題が始まってからも他の二人が基本的に話して、私に申し訳なさそうに確認をする。そんな授業。

 

 まだ泣いちゃだめ。


 もう少しだけ、我慢して。


 授業が終わるまででいい。


 休み時間になったら、すぐにトイレに駆け込んで泣いたっていいから。



 だから、どうか……



 どうかもう少しだけ耐えて。



 課題が終わり、先生がグループごとに課題を集める。先生が課題を集め終わって、教科書の説明をしているとチャイムが鳴る。


「じゃあ、そろそろ授業終わるぞー。号令」

「起立、礼」

 

 私は、号令が終わると同時にすぐに教室出る。トイレじゃだめだ。もっと人が居ないところに行きたい。先ほどの授業で使われていない空き教室に駆け込んだ。



 もう泣いていいよ。



 そう心に言い聞かせる前にもう涙は溢れていた。嗚咽の混じった泣き声だった。



「うぁ……っ……!!苦っしい……の……!!苦しい……!苦しい!苦しい!」



 「誰か助けて」と、泣き叫んでしまいたい。それすら校内では許されない。空き教室でも、叫べば近くの教室に届いてしまう。


「うぁっ……はぁっ……!」


 無理やり泣き声を抑えるような泣き方だった。


「ちゃんと笑顔で教室に戻らないと……戻らないと、なの……に、な……」


 涙は止まってなどくれない。それでも次の授業は休めない。だって休めば、きっともう教室の扉を開くことは出来なくなる。

 無理やり袖で涙を拭って、ポケットティッシュで鼻をかむ。手鏡で顔を見ると、目が充血していて酷い顔だった。

 教室に戻りたいのに、この顔をクラスメイトに見られるのは嫌だった。


「どうせ誰も私を見てないからいいか……」


 そう呟いた自分が本当に惨めで、私はもう一度泣きそうになった。


 昼休みになっても、気持ちは晴れないままだった。


「野中さん、大丈夫?なんか元気ない?」

「あ、いや……大丈夫だよ!」


 頭が働かなくて、「ちょっと朝から体調悪くて」とか「体育で疲れて」とか適当な理由をつけることすら出来ない。

 私が無理をしていることに浅沼くんは気づいたようだった。


「俺で良かったらなんでも聞くけど。野中さんにはお世話になってるし」

「あ……えっと……」


 言えるはずがなかった。クラスのグループワークで余って、クラスメイトに気まずそうに話しかけられたと誰が言えるのだろう。同じ境遇でも、自分が惨めすぎて伝えられない。

 小さなプライドが邪魔をする。


「まぁ、無理には聞かないけど」


 そう言って、浅沼くんは何故か自分の話をし始めた。


「俺は今日、休み時間に課題を提出しようと席を立ったら、少し近くの人にぶつかったんだ。それで『ごめん』って謝ったら、気まずそうに『あ、全然……』って言われた」


 浅沼くんの意図が分からない。



「それが俺の今日あった嫌なこと。野中さんは?今日、何か嫌なことあった?」



 その時、初めて浅沼くんの優しさに気づくのだ。


 その優しさが嬉しい。


 それでも、人の出来ている浅沼くんを見ると、何故か自分がさらに惨めに感じた。そんな自分が最低で、心がざわついたのが分かった。


「言えない……ごめん……」


 気づいたら、そう呟いていた。浅沼くんは、そんな私を怒りもせず「そっか」とだけ言った。



 本当に自分が最低で、今があまりに辛すぎて、気づいたら詰まったような声でもっと最低なことを言ってしまう。




「あの日、私なんて交通事故で死んでしまったら良かったのに」




 もう涙も溢れない。まさに心に穴が空いたようだった。浅沼くんが立ち上がり、私の前に立つ。



「野中さんも立って」


 

 私が視線を下に向けたまま立ち上がると、浅沼くんの右手が上がったのが視界の端で見えた。

 本当に最低なことを言った。怒鳴られようが、頬を叩かれようが、仕方ない。

 私は目を閉じることもせず、ただ浅沼くんの怒りを受け入れるつもりだった。



 しかし、浅沼くんは右手で私の手を取り、左手でパチンと私の手のひらを叩いた。


 

「顔を上げて、野中さん」



 意味が分からないまま、顔を上げた私と浅沼くんは目を合わせた。



「頬はお母さんにでも叩いてもらって」



「え……?」



「野中さんが生きていて良かったと心の底から祈って、野中さんのために軽食やお弁当を作ってくれるお母さんにでも怒って貰えばいい。いや、お母さんじゃなくてもいい。野中さんが事故にあった時に、心を痛めるほど野中さんの無事を祈ってくれていた人間にでも叩いて貰って」



 空いた心の穴が埋まったわけではないのに、気づいたらちゃんと涙は溢れていた。



「それでも、俺も『今』ちゃんと野中さんに生きていてほしいっと思ってる。だから、手のひらを叩くくらいは許して」



 それがどれほどの優しさか分からないほど、私はもう子供じゃない。


「ごめんっ……なさ……い……ごめん、なさい……!」


 両手で顔を隠し、浅沼くんの前で泣いてしまう。


「ねぇ、野中さん。俺だって、高校なんてきたくない。なんなら、死んでしまいたいって思うことすらある。でも、そんな時に野中さんに出会ったんだ」


 顔を手で隠しているので、浅沼くんの表情は分からない。


「野中さんに初めてここで会った日……午前中のズル休みは二回目だったけど、きっとその次の日は『欠席』になっていたと思う。そして、そのまま『不登校』になってた。それくらい、もうだめだと思ってたんだ」


 涙でボロボロの顔をあげると、浅沼くんはまだちゃんと私の方を見つめたまま話してくれていた。


「あの日、一人でお弁当を食べて、冷たい廊下に座って、イヤホンで自分を守るみたいに小さく体育座りをしている……そんな野中さんに救われたんだ」

「救われた……?」

「最低だけど、同じ境遇の人が同じように苦しんでいるのを見て『安心』した。でも、それと同時に『負けたくない』って思った。『この人と一緒に頑張りたい』って」


 浅沼くんは、私の隣にもう一度座り直す。


「こうやって隣に座って、一緒にお弁当を食べるだけの関係。友達とは少し違う関係かもしれない。それでも、今、俺にとって学校で一番楽しい時間なんだ」


 私もだよ、と言いたいのに嗚咽ですぐに声が出てこない。私も一番嫌いな昼休みの時間が一番好きな時間になったの。


「私も楽しい……本当にこの時間だけが救いなの……」


「じゃあ、皆んなと一緒だな」


「え……?」



「皆んな授業が嫌な人が多いだろ?昼休みが一番好きって人の方が多いと思う。じゃあ、俺らきっと『普通』だよ」



 その言葉に救われないなんて無理だった。


 「普通」に戻りたくて、ただ「普通」になりたくて。


 そんな私に「普通」と言ってくれる。


「普通」が良いとかじゃなくて、ただ今の私がその言葉を求めていた。


 心臓がキュゥーっと痛んで、初めて前を向ける。


「浅沼くん……本当にありがとう」


 クラスで無理やり作る笑顔とは違う顔でお礼を言えただろうか。伝わっているだろうか。どうか伝わってほしい。


 本当に前を向けた。


 それでも、クラスでの苦しさは変わらない。分かっている。


 でも、今のこの気持ちを忘れたくない。



 どうか、この勇気が出るこの言葉を……この魔法を忘れないで。

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