第45話 右利きとか左利きとか
夕陽の赤い光に照らされながら、ディアンは言葉を続ける。
「眼が覚めると、僕はシルヴィア所長と一緒に見知らぬ場所に閉じ込められていましたが、僕は絵が気がかりでした。触るなとはいっておきましたが、そんな言葉が守られる保証なんてどこにもない……。早く皇宮に帰らないと、と焦りました」
その言葉に、思い当たることがあった。
「もしかして、あんな高い場所から飛び降りようとしたり、騎士が見張っている玄関を無理矢理通ろうとしたのは――」
「はい。僕なりに早くあそこを脱出しようと必死だったんです。だからちょっと強引にでもなんとかしてあの館を抜け出そうとして……」
そこで彼は少し苦笑する。
「強引すぎだったでしょうか?」
「……まあ、そうね。でも気持ちは分かるわ」
彼の焦りと恐怖は想像できる。
一刻も早く城に戻らないと、トリックがバレてしまうかもしれないのだから。
今までは嗅覚を理由にすれば他人の行動は抑制できた。だが怪盗が絵を盗んだというショッキングな出来事の直後である。前提条件が違うのだから、いくら嗅覚を理由にしたところで調べられてしまうかもしれない。
そうしたら、せっかくここまで築き上げたトリックがバレて、ディアンもただではすまないだろう。
「あのときは、所長には助けいただきました。本当にありがとうございます」
「どうってことないわ、私だって早く脱出したかったしね」
ディアンは微笑んで一瞬視線を遠くに投げると、思い返すように続けた。
「でもようやく脱出出来たと思ったら、まさかルース殿下が立ちふさがるだなんて思いませんでしたけど」
ディアンは強い。
だからルース殿下と戦ったとしても、余裕で勝つだろうと思っていた。だが実際は、ディアンが劣勢だった。
『……ここまでか』
という小さな呟きが耳に蘇る。
今なら分かる。あれがなにを意味していたのか。
「あなた、左利きであることを隠すために最初は右手で戦ってたのね」
彼の淡い水色の瞳を見つめ、私は静かに訪ねた。
「でもそれだと限界がきてしまった……」
ディアンは深く息をつき、顔を伏せる。
「……本気で僕を殺すつもりのルース殿下の一撃は、稚拙ですが重いものでした。僕自身が負けないためにも、何よりシルヴィア所長を守るためにも、利き手の構えに替えて対抗するしかありませんでした」
「どうして……」
ポレットが呟いた。その声には相変わらず驚きが混じっている。
「なんで左利きであることを隠したんですか? ディアンが左利きなのは悪いことじゃないでしょう?」
ディアンはゆっくりとポレットを見つめた。
「シルヴィア所長に、予告状のことを見破られていましたから。あれは左利きの人間が書いたんだって」
そう、あの予告状は右下がりの字だった。それは左利きの人間が書く字の特徴である。もちろんすべての左利きがそういう癖を持っているわけではないが……、ディアンはそうだったのだ。
「字は僕の筆跡が分からないくらいに崩したのに、右下がりの癖だけは出てしまいました……」
「そんなこと気にしてたんですか? 左利きなんて世の中にはいっぱいいるんだから、それくらいで正体がバレることなんてないのに。私の侍女仲間にだって左利きの人はいますよ。左利きの人が全員ブラックスピネルだとしたら、どんだけブラックスピネルはいるんだってことになっちゃう」
「冷静に考えたらそうなんですけどね。……僕は、冷静じゃなかったから」
と、彼は私に、微かに揺れる淡い水色の視線を向ける。
「所長が最初に『予告状には左利きの人間が書いた特徴がある』って言い出したときには、生きた心地がしませんでした。あのとき、僕は気が動転した。だから咄嗟に決めたんです、所長の前では右利きの振りをしようって」
それからディアンは、自分の右手の手の平を見つめた。その眼には深い悲しみの色が浮かんでいた。
「でも、結局、できなかった……」
それから彼は、私に決意を込めた視線を送り、膝をがくんとさげた。
それは膝を落とす騎士の礼なんかではなく、もっと本格的に膝を落とすもので――彼は私に向かって膝立ちになったのだ。
そしてディアンは、両腕を揃えて私に突きだした。
「捕まえてください、所長。覚悟はあります。僕がやったことは、悪いことです」
その腕は、小刻みに震えていた。
「僕は、自分のために『湖畔の愛』を盗もうとしました。結局盗めなかったけど、騒動を巻き起こして、いろんな人に迷惑を掛けました」
真剣な顔で罪を告白する彼の目からつーっと涙が溢れ、赤い夕陽が差す頬に落ちていった。
「特に、絵を譲渡してもらおうと遠い国からきたナシーム様には本当にご迷惑をお掛けました。だから……」
「あー、それなんだけどさ」
と、急にこの場に見合わないくらい、明るい声でアステル殿下が割り込んできた。
「その肝心のナシーム殿だけど、逃げちゃったよ」
「え?」
その場にいた私たち――私、ディアン、ポレットは、揃ってアステル殿下を見つめたのだった。
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