第46話 逃げた大富豪

「ナシーム様が、逃げた……?」


 ポレットの声が、夕陽に満たされた大会場の静寂に溶け込んだ。大会場にいた誰もが言葉を失う。


 大富豪が、逃げた? どういうこと……?


「そう、逃げた。偽ブラックスピネル騒動でみんなが混乱してる最中にね」


 アステル殿下は演技がかった溜め息をつく。


「雇い主に捨てられて形勢が怪しくなったと知るや脱兎の如く逃げ出すなんて、なかなかに目端の利いた悪党じゃないか。僕としてもこの姿勢は見習わなきゃな。おっと、これはこっちの話だから気にしないでくれ。僕も存外口が軽いな、気をつけないと」


 アステル殿下は笑みを浮かべてみせたが、その瞳には鋭い冷たさが宿っていた。


 立ち膝のまま困惑しているディアンは、驚きに見開いた目でアステル殿下を見上げる。


「悪党……? ナシーム様が悪党って、どういうことですか?」


「いやね」


 と、アステル殿下は軽く肩をすくめ苦笑した。


「今回の件はルミナが関わったんだ」


 ルミナ――その名前が、まるで刃のように私の胸に突き刺さる。

 その言葉に、私は何度目になるか分からない息を呑んだ。


「ルミナって、あのルミナ様ですか!?」


「そう、あのルミナ嬢だよ」


「え、誰ですか、ルミナ様って?」


 首を傾げるポレットに、私は自分が知っている限りのことを説明した。


「ルミナ様っていうのはね――」


 私がルース殿下と婚約していたところをルミナ様に奪われ、そしてブラックスピネルが現れたどさくさに紛れて逃げられたこと……。

 もちろんブラックスピネルがアステル殿下であることはいわなかったが。


「そんなことがあったんですか……」


 ディアンが呟き、涙を拭きながら私を見上げる。


「シルヴィア所長も大変だったんですね」


「そうねぇ。でもお陰でこうして今があるから、ある意味では感謝しないといけないわね」


 あんまりあの人に感謝はしたくないけどね……。でもルース殿下との縁を切ってくれたことは本当にありがたいわ。


「今回のルミナは、フローレンス・フローレンス・ラヴィエールと名乗っていた。そう、大富豪の凄腕代理人だ」


 代理人……。あの大富豪ナシームさまの通訳をしていた女性ね。

 彼女がルミナ様だったというの……?


「私、ちっとも気づきませんでしたわ」


「君はフローレンスとは会わなかったからね。会ったとしても、譲渡の儀でナシームの通訳をしているのを見たくらいだろ?」


「まあ、そうですが……」


「僕は何度か間近でやり取りしたんだよ。一目見たとき、なんだかどこかで見たことがあるような気がしたんだ」


 と、彼は自分の黄金の瞳を指差しながら続ける。


「変装はうまかったし瞳の色も変えてたけど、目の形に見覚えがあった」


 悔しさが私の胸裏に広がる。アステル殿下は気づいたのに、私は気づけなかっただなんて!


 だって、確かに遠目で一度しか見てないとはいえ、ルミナ様との関わりは私の方が深いのよ。変装を見抜くんだったら私こそが見抜くべきじゃない?


「ついでに言っとくと、本人に聞いたら認めたよ」


 とそこでアステル殿下は黄金の瞳で中空を睨む。


「……うん? 認めたよな? 『自分がルミナだったらなんだっていうんだ』とか言ってたし」


 その言葉に、私は思わず拳を握りしめていた。


「ルミナ様とお話しされたのですか……!」


「そうだよ、追っていったときにね。結局逃げられたけど――それで、絵画を巡る計画を聞いたのさ」


 彼はニヤリと笑って話を続ける。夕陽が彼の黄金の瞳に反射して、まるで彼自身の瞳が灯っているかのようだった。


「ルミナは認めなかったけど、彼女の後ろには組織がいる――今回の計画は、要するにその組織がルートヴィヒ・エーバーハルトの作品を買い占めて市場価格を不当につり上げようとしたのさ。ルートヴィヒは最近亡くなった画家で、こういう言い方をするとなんだけど、供給がストップしたから計画の対象に選ばれたんだろう」


「まあ……」


 そんなことをしようとしていただなんて。

 って、ちょっと待って。『組織』?


「ルミナ様の後ろの組織? ルミナ様はなにかの組織に所属していらしたのですか?」


「本人はぼかしてたけどね。まっ、自分から、私はこれこれこういう犯罪組織に所属しています! って自慢するようなハッピーな頭では残念ながらなかったってことだ。なんにせよ、あいつはかなりやり手の悪党だよ」


「まあ……」


 ルミナ様……癖の強い人だとは思ってたけど、素人ではなかったのね……。



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