第44話 供述
「ディアンが、ブラックスピネル……!?」
ポレットがハッと口元に手を当てる。
「そんな。信じられないです、ディアンが、そんな……!」
だがディアンは静かに首を振った。
「僕は、違います。ブラックスピネルではありません。……名前を騙っただけです」
「それは、どういう……?」
ポレットは、驚きと戸惑いを隠そうともせず目を見開いている。
「あなたはブラックスピネル……なんですよね?」
ディアンはゆっくりと視線を絵画に移しながら口を開いた。
「ある人にいわれたんです。ブラックスピネルがあの絵を狙えば、絵が再評価されて譲渡が中止になるかもしれない、と。だからブラックスピネルの名前を使おうと決めたんです」
アステル殿下が肩をすくめた。
「僕だね。確かに言った覚えがあるよ、『ブラックスピネルほどの怪盗が狙う絵なら、価値が見直されて取り引きが中止になるかもしれない』って」
「まあ、殿下のお言葉が発端だったのですね」
私は「はぁ」と息をついた。今回は本物のブラックスピネルは関係ないと思っていたけど、ディアンに犯行を思いつかせたのはアステル殿下だったなんて……。
ほんと、罪作りな怪盗さんだこと。
「違うんです、殿下のお言葉は切っ掛けに過ぎません。行動したのは僕の意思です。どうしても『湖畔の愛』の譲渡を止めたかったから」
夕陽が窓から差し込み、ディアンの淡い金髪が赤みを帯びて輝く。彼の影は長く伸び、まるで金髪のディアンと偽ブラックスピネルのディアンという、二つの存在を表しているかのようだった。
「最初は予告状を送るだけのつもりでした。絵が再評価されればそれでいいと思っていたんです。でも譲渡が中止にならないと分かって……それで、今度は本当に絵を盗む計画を、頭を振り絞って必死に考えました」
「なんで……そこまでして……?」
ポレットが、不思議そうに呟いた。
「なんでそんなにこの絵に執着するんですか? ややこしいトリックを考えてまでこの絵にこだわる理由って……?」
確かにそうよね。こんな手間の掛かるトリックを彼一人で作り上げた――その理由はなんなのかしら。動機までは、私にも分からなかったのよね。
ディアンは少し口を閉ざし、しばらく静かに絵画を見つめていた。その視線はまるで、遠い過去に思いを馳せているかのようで……。
「これ」
彼はすっと腕をあげ、絵を指し示した。絵は夕陽に柔らかく反射し、穏やかな湖と、その前に寄り添う二頭の馬の姿が浮かびあがらせていた。
「僕の、父と母です」
「え?」
私たちは絵画を注視する。
まさか、ディアンの両親は馬だというの?
……だが。彼が指し示したのは絵の隅で、そこには――。
「あ、人がいる」
ポレットが呟く。
絵の隅に小さく描かれていたのは、傘を差した後ろ姿の男女だった。
「……父と母は」
ディアンは絵を見つめたまま、穏やかに語り始めた。
「僕が10歳のとに、馬車の事故で亡くなりました」
館に閉じ込められていたとき、湖を見ながらディアンが騙っていたことを思い出す。
ディアンは確か、同じ事を私に説明してくれた。
……レンクランツ家のご夫妻は、もちろんご存命である。
父母が生きているのに、父母が亡くなっている……。この二つを同時満たす解は、ただ一つ。
「……ディアン、あなた」
私は、彼の目を見て尋ねた。
「生家からレンクランツ家に引き取られたのね?」
「はい。両親が亡くなってすぐ、親戚のレンクランツ家が養子にしてくれたんです」
彼は淡々と語る。
「でも、引き取ってもらうには条件があって。リヒターフェルト家の……僕の実家の財産をすべて処分して、レンクランツ家に譲れ、と。――その条件を受け入れるしか、僕には選択肢がありませんでした。成人したら何割かは返してくれるという約束ですが、正直、あまり期待はできないと思っています」
ディアンの瞳には、両親を喪った記憶の残像が浮かんでいるようだった。家のすべてを奪われるだなんて、そんなのって。
ポレットが目を伏せ、複雑そうな顔をしてしんみりと呟く。
「そんなことが……」
「僕は『ディアン』という名前以外のすべてを失いました。でもそこまでしても、レンクランツ家は僕を快く受け入れようとはしてくれなかった。義兄のアドリックにはよくいじめられました……子爵家の人間が公爵家の子供になるなんて認めない、って殴られたりして……。歳が来たら僕は寄宿制の騎士学校に入れられて、本格的にレンクランツ家からは遠ざけられました。――僕にとっての家族は、この『湖畔の愛』に描かれた両親だけでした」
処分された財産のなかには、もしかしたらディアンの本当のご両親の肖像画もあったかもしれない。でも、それも処分されてしまった……。
だからディアンにとっては、馬が主題の絵の片隅の小さな後ろ姿であったとしても、大事な両親の肖像画だったのね。
ディアンの守りたかったもののあまりの純粋さに、私も胸がきゅうっと痛んだ。
「しかし君は、嗅覚を理由にした綱渡りみたいにギリギリのトリックを渡り、いざ絵を盗って算段になったときに――」
と、アステル殿下がディアンをじっと見つめながら問いかける。
「見てしまったんだね。シルヴィアがルース君に拉致されるところを」
「はい」
と、彼はその瞬間を思い出すように、壇上から下を眺めた。
私が壇に上がろうとし、そこを後ろからルース殿下に薬を嗅がされた、あの瞬間を、彼は見た――。
「全身が総毛立ちました。自分の目が信じられなかった。まさか、僕が作った混乱に乗じてこんなことが起こるなんて思いもしなかったから」
「トリックの総仕上げをするためにも君はこの場を動きたくなかったはずだ。なのに、シルヴィアを助けることを選んだ――」
「実際、迷いました」
と、ディアンは少し疲れたように笑った。
「あと少しで『湖畔の愛』を――両親の絵を僕のものにすることができるのに、眼の前で所長がピンチになっている。絵を得ることを遅らせたら、それだけバレる可能性だって高くなる。それでも所長を助けることが、僕にとって正義なのか、と」
そこで彼は自嘲気味に苦笑した。
「……正義、だなんて。絵を盗もうとした僕が綺麗事をいうべきではないということは、自分でも分かっています。でもやっぱり、放っておけませんでした。匂いが分からなくなるから僕が帰るまではぜったいに絵に触れないように――強くそう言い置いて、僕は絵画から離れました」
彼は後ろ頭に手をやって苦笑する。
「……それだけ意気込んで追いかけたのに、廊下の暗がりに入った途端、後ろ頭を殴られて気絶してしまいましたが」
なるほど。それで私と共にあの湖畔の館の屋根裏部屋に閉じ込められた、というわけね。
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