第26話 アステルと少年騎士(アステル視点)

 昼食前の時刻、ビュシェルツィオ皇宮の廊下は窓から差し込んだ陽光で白く照らされていた。獅子の紋章が描かれたタペストリーの前を、昼休みに備えて区切りよく仕事を終えようとする宮廷人たちが活発に通り過ぎていく。


 そんななか、アステルは二手に分かれた大階段の片方をトントンと小気味よく降りていた。そして、階段が一つになる踊り場で自分を待っている少年を見つける。


 少年は、切なそうに目を細めて絵画を見上げていた。


「すまない。待たせたね、ディアン」


「殿下」


 少年――ディアンは振り向くと、さっと素早く片膝を下げる騎士の礼をとった。


 月光のような淡い金髪が窓からの光を受けて煌めき、湖のように静かな水色の瞳がアステルを見上げる。


 今年騎士学校を卒業したばかりの15歳で、女性的な顔立ちの少年である。卒業してすぐにアステル付きの専属騎士となり、現在は皇宮近衛騎士団の揃いの騎士服を着ていて、これがしなやかな彼によく似合っている。


「君は絵のなかの匂いまで分かるのかい?」


 ディアンは意外そうに瞳を瞬かせた。


「いえ、まさかそんなこと。でもどうして……?」


「あまりにも熱心に見ているものだから、てっきり馬の匂いでも嗅いでいるのかと思ったのさ」


「ふふっ」


 アステルの軽口にディアンは軽く微笑を漏らしたが、すぐに真面目な顔になってアステルを見つめた。


「そうだったら面白いとは思いますが、いくら僕の鼻でも、使われている絵の具の原料しか分かりません」


 と、彼はもう一度視線を絵画にやる。


「あの夫人が付けている香水の香りなら、嗅いでみたかったですが」


「なかなかマニアックな願望だね」


 アステルが黄金の目を細めて微笑むと、ディアンは「すみません」と恥ずかしそうに後ろ頭を掻いた。


 画家ルートヴィヒ・エーバーハルト作『湖畔の愛』。大人の男二人がかりでようやく運べるであろう大きな横長の絵画で、題材は湖畔に寄り添う白馬と栗毛の馬である。よく晴れた春ののどかな情景で、遠くには傘を差した男女の後ろ姿も小さく見えた。


「でも、この絵は――」


「……はい」


 ディアンは深刻そうに眉をひそめる。


義兄あにが仲介した方に、譲渡されることが決まっています」


 エーバーハルトの絵を集めているという遠国の大富豪が、この絵をどうしても欲しいといってきたのだ。

 それを、ディアンの義兄であるアドリックがこの絵の所有者である皇帝に取り次いだ。


 つまりあと数日もしないうちにこの絵はビュシェルツィオの皇宮を去り、大富豪のものとなる。


「……今からでも譲渡に反対するかい? まだ間に合うかもしれないよ」


 アステルの言葉に、少年騎士の頬が一瞬だけ未練がましくひくついた。だがすぐに首を振る。


「……僕が反対したところで、この絵は皇帝陛下のものです。僕にはなにも言えません」


「でも、もしこの絵に隠された秘密の価値が発見されたなら、父上も引き渡すのを渋るかもしれない」


 そう言うと、淡い水色の瞳が意外そうに見開かれた。


「この絵にそんな秘密があるのですか?」


「さぁね、ないと思うな。少なくとも僕は聞いたことがない」


 確かに綺麗な絵だが、引き込まれるような精緻さもなければ、息を呑むような生々しさもない。まさに『大階段の途中に飾るのに相応しい』絵である。つまり、皇宮の引き立て役にはなるが、これ自体が主役になることはない――そんな平凡な絵だ。


「だから父も手放されることにしたんだろうね。でも大富豪にとってはこの絵は何が何でも欲しい逸品だった――」


 ヴァルフリート皇帝はこの絵を手放すことを相当渋った。価値の問題ではない。ハルツハイム国王に貸したピンクダイヤモンドの首飾りが帰って来なかった経験から、宝物が自分の手を離れることにトラウマを抱えてしまったのだ。


 そんな皇帝が『湖畔の愛』を大富豪に譲渡する気になったのは、ディアンの義兄アドリックが熱心に働きかけたからであった。


 それはもう苛烈に、熱烈に、大富豪がどれだけこの絵を欲しがっているかを懇々と説明し、皇帝を説き伏せた。


「ほんと、絵の価値って人によるよね。てことはさ、案外父に対しても簡単に作れるんじゃないかな」


「でも、そんなのどうやって……」


 ディアンの当然の疑問に、アステルの黄金の瞳が自慢げに爛々と輝く。


「君はブラックスピネルを知ってるかい?」


「巷で噂になってる怪盗ですね。殿下がシルヴィア様と運命の再会を果たされた事件の首謀者という……」


「そうそう」


 あの夜、怪盗皇子ブラックスピネルに誘拐されたシルヴィアを、たまたま通りかかったアステルが助けた。

 偶然にもシルヴィアは幼い頃に会ったことがる女性で、しかも以来ずっと心に思い続けていた女性でもあった。

 運命的な再会に感激したアステルはこの機を逃すまいと彼女に求婚し、シルヴィアもそれを受け入れた――。


 そんなロマンティックな噂が市井に流布していた。ディアンもそれを聞いたのだろう。


 それは、半分本当で半分嘘だった。そのことはアステルがよく知っている。アステル自身がその怪盗皇子であり、噂を流した張本人だからだ。


「その怪盗がこの絵を狙ったらどうなるだろう? 怪盗皇子が狙うほどの価値があると分かれば、父もこの絵の譲渡を考え直すんじゃないかな」


 それはつまり、自分にはそれだけお宝を見る目があるんだぞ、という自画自賛なのだが――。そんなことを知らないディアンは、最初アステルの言葉の意味が理解できないようだった。だがすぐに彼の瞳に驚きと、ほんの一握りの期待が浮かぶ。


「ブラックスピネルが――」


「おっと、すまない」


 アステルは肩をすくめて飄々と微笑んだ。


「君の義兄上が関わる取り引きを怪盗が狙うだなんて、冗談でも言っちゃいけなかったね」


「……いえ」


「僕は、この取り引きが何事もなく済まされることを願ってるんだよ、これでも。今のところはね」


「いまのところ……?」


「まあ、こっちの話だから気にしないで」


 ――この取り引き、どうにも胡散臭いのだ。


 何故アドリックが、大富豪とこの絵の仲介をあんなにも熱烈にしたのか。


 それは、彼が大富豪の代理人の女に入れ込んだからであった。要は代理人の女が色仕掛けでアドリックに取り入ったのだ。


 アドリックは粗暴なところがあるとはいえ、公爵家の長子であるという重い責務が服を着ているような男である。そんな男に取り入る手練手管など、並みの代理人は持ち合わせていないだろう。それだけで、その女がどれだけ手練れか分かる。


 それだけならまだいいが、アステルは代理人の瞳に見覚えがあった。瞳の色が紫になっているが……あの夜、闇に消えたピンクの女――名をルミナ、彼女に形がそっくりだったのだ。


 別に馬の絵など惜しくはないが、あの女が関わっているとなれば話は別である。

 この取り引は潰した方が、ビュシェルツィオ帝国のためになる。


 だが、それを対外的に喧伝し、取り引きを中止するところまではいっていなかった。

 何故ならアステルはあの夜、あの婚約破棄が行われた会場には行っていないことになっているからだ。つまり、ルミナとは会ったことがない・・のである。彼女と会ったのはあくまでも怪盗皇子ブラックスピネルという、神出鬼没の怪盗だ。


 だからアステルは、対外的にもこの取り引きは怪しいのだと証明するために、いま証拠を探っているところだった。


「ま、それはいいや。立ち話もなんだし、行こうディアン。話は聞いてるよね?」


 と先だって階段を降りながら話しかければ、ディアンもあとに続いてきた。


「はい。若輩者の僕に殿下の婚約者様の護衛を任せていただけるなんて、とても光栄です」


「それだけじゃないぞ、シルヴィアは名探偵なんだ。君の嗅覚は捜査の頼りにされるはずだよ」


「お任せください。殿下とシルヴィア様のご期待に、必ずやお応えして見せます」


 胸に軽く拳を当てて頷くディアンは、しかし最後に振り返り、階段から絵画を仰ぎ見た。

 彼の目に先ほどまでとは違う期待のような光が宿っているのにアステルは気づく。


(……まさか、本当に盗んでほしいのか?)


 その願いを叶えるべきか否かは、あのピンクの女次第、といったところだ。






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