第20話 怪盗を待ちわびて(ルース視点)
月明かりもなく、誰もいない静かなホール。そこで俺は一人、剣の柄を握りしめて立っていた。
不埒な怪盗ブラックなんとかと一騎打ちをするためだ。
額には緊張から汗がにじみ、ぎゅっと剣の柄を掴んだ指先が冷えてくるが、俺は勇敢な姿を崩すつもりはなかった。
ルミナが授けてくれた計画である。
天使のように優しいルミナが、自ら囮となって怪盗を引きつけてくれていた。これは俺への信頼と愛によるものだ。
だが、どうしてもシルヴィアの冷たい緑の瞳が脳裏をよぎった。
『殿下、冷静にお考え下さい。ルミナ様は、ただ逃げようとしているだけですわ』
まったく、お前にはほとほとあきれ果てるぞシルヴィア。
ルミナの清らかな心が分からないとは……。
ルミナは俺が与えた真実の愛に触れて天使の心を取り戻したのだ。
シルヴィアのように冷酷で皮肉げな女には理解しづらかったようだが――。
もとをたどれば、元凶はシルヴィアにあった。
あいつが悪いのだ――俺の婚約者のくせにあんな冷たい緑の瞳で俺を馬鹿にしてくるあいつ。なにが探偵令嬢だ、馬鹿らしい。令嬢なら令嬢らしくしろ。俺に意見するな。
俺は今夜、主催する夜会で、探偵気取りの大悪女シルヴィア・ディミトゥールを断罪し、そこで男爵令嬢ルミナ・ランバーズを正式な俺の婚約者として発表する予定だった。
だがそれはルミナの劇的な裏切りにより阻止されてしまった。
あろうことか、ルミナこそが悪女だったのだ。俺はルミナに騙されていたのである。
シルヴィアが令嬢らしくしおらしい女だったら、こんなことにはならなかった。俺はルミナへの気持ちを心の奥底に封じたままだったに違いない。
それにシルヴィアが淑女中の淑女であれば、ルミナも利用しようなどとは思わなかったはずだ。シルヴィアがルミナを悪事に走らせたのである。シルヴィアに影響されてこんな悪事を働くことになったルミナが哀れで仕方がない。
つまり、すべてシルヴィアが悪いのだ。
……だが、ここでルミナは劇的なシーンを用意してくれた。
土壇場で天使としての心を取り戻し、ルミナにプレゼントしたピンクダイヤモンドの首飾りも返してくれたのだ!
そのときの光景を思い出す度に胸が打ち震える。
俺の愛が奇跡を起こしたのだ。
すさんだ心の堕天使ルミナは、俺の与えた真実の愛に触れて天使としての力を取り戻したのだ。
なのに、ああ……あきれ果ててしまうではないか。シルヴィアはこの期に及んでルミナを疑っていたのである。
なんと心の醜い女であろう。
顔かたちの良さで内側の醜さを誤魔化すシルヴィアこそが、本当の意味において救いようのない堕天使であったことは、もはや明白だ。
俺はルミナを天使と見抜き、彼女を見初めた。一方シルヴィアのことは最初から懐疑的であった。なんというか、心が動かなかった。
それは俺の真実を見抜く力が成し得たとであり、男としての価値の証だ。
優しい心を取り戻した天使ルミナは聡明なる見地により素晴らしい策を授けてくれた。
俺に首飾りを返し、自らは囮となって怪盗を引きつけてるという――。
なんと危険な役回りか。恐がりで泣き虫のルミナがこのような勇気ある行動に出るだなんて……。俺の与えた真実の愛というものの尊さが、彼女に勇気を与えたのだ。
恐がりな少女は愛に触れて、愛する男に忠誠を誓う令嬢に成長したのである。
ああ、ルミナ。心を取り戻した天使がどこへ行こうと、俺は止めない。
天使は翼のままに自由に大空を駆ければ良い。天使は空に還そう。
でも知っているよ。君は必ず自ら俺のもとに帰ってきてくれると。相見えしそのときには、とびきりの笑顔を見せておくれ、我が天使ルミナ……。
ところで肝心の首飾りだが、俺は持っていない。
ルミナは首飾りをシルヴィアに託したのだ。
シルヴィアはルミナを憎んでいる。なのに、そのシルヴィアを信じ、大切な首飾りをシルヴィアに預けた。
ルミナ……なんと心の綺麗な女なのだろう。本当に天使なんじゃないだろうか。君、その可愛らしい背に翼を隠してはいないかい?
それに引き替えシルヴィアときたら、最後の最後までルミナを信用していなかった。
ルミナは逃げるつもりだからそんな策は信じるな、とまで言ってのけたのだ。
どれだけルミナを悪役に仕立て上げれば気が済むというのか! あの悪女め……! 思い出すだけで、腹が立って仕方がない。
シルヴィアに婚約破棄を言い渡した俺の選択は間違っていなかった。
もしルミナが大空に羽ばたいていってしまったとしても、俺がシルヴィアと復縁することはない。
そしてルミナは俺に見せ場を用意してくれた。
この場に残り、怪盗と一騎打ちせよ、と。
正直、これほどの見せ場をもらえるとは思っていなかった。本当にルミナは俺のことをよく見てくれている。感謝しかない。
我が天使ルミナよ。
お前の想いに応えよう。
俺はこの剣で怪盗と戦い、見事勝利を収めてみせようぞ。
それが俺の、君への恩返しだよ。
それに素晴らしい活躍をすれば、ルミナが俺のもとに舞い戻ってきたとき、とびきりの笑顔をくれるはずなのだ。
「ルース殿下、見事な勝利でした。あなたのような素晴らしい男性を愛することが出来て、ルミナは幸せです」と。
……俺の勘はよく当たる。ルミナが素晴らしい乙女だと一目で見抜いたことからも分かるように、真実を見抜く目は飛び抜けているのだ。
ルミナ……見ていてくれ。俺は必ずやってみせる……!
――そのはずだったのに。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
どうして俺は、誰一人いない暗くなったパーティーホールで、たった一人でぽつねんと怪盗を待ち続けているのだろう?
俺の身に何が起こったというのか。
ホールを包む静けさが、俺の皮膚に冷たく食い込んでくる。
誰もいない――食べかけの軽食が残っているテーブルも、そこかしこに落ちている扇も、光の消えたロウソクも、皆等しく静かに月明かりに沈んでいた。
ホールの奥から誰かが俺を見ているような錯覚を覚え何度もそちらに向かって剣を構えるが、なにも進展することはなかった。
一騎打ちの舞台は整っているというのに、肝心の相手が待てど暮らせど来ないとは。
俺はただ、ルミナに頼まれて怪盗と一騎打したいだけなのに。待てど暮らせど肝心の怪盗がこないだなんて……。
まさか……?
いや、そんなことはない。あるはずがない。あるはずがないではないか。
だが気づいてしまったその悪夢に、背中に冷たい汗が伝っていく。
……俺は、まさか、騙されたのか?
誰に? ……ルミナではない。ルミナであるはずがない。何故ならルミナは俺の愛に触れて正気を取り戻した愛の天使なのだから。
きっとシルヴィアだ。あの悪女が俺を騙したのだ。なにをどう騙したのかは分からないが、悪いのはシルヴィアだ。そうに決まっている。あいつが悪くないというのなら誰が悪だというのか。
シルヴィアが冷静に口にした言葉が、今も胸の奥に不気味に引っかかっている。それがプカプカと浮いてくるのを止められない。
『殿下? 先ほどこの人に騙されたばかりですわよね? もうお忘れになったのですか?』
そんなはずない。そんなはずがあってはならない。
俺とルミナの真実の愛は、絶対なのだから。
……だが、怪盗が来ないこの状況はどう説明すればいいのだ?
ああ、そうか。
ようやくその可能性に思い当たった。なんだ、そんな簡単なことか……怪盗は俺に恐れを成して逃げていったのだ!
まったく腑抜けた怪盗だ。
それなら俺がここにいる必要はない。
こんな不気味な場所はとっとと切り上げて、自分の部屋に戻って首飾りを確認しよう。
そうだ、ルミナのお陰で難を逃れた首飾りなのだから、今度こそルミナに授けようではないか。
そして、俺はプロポーズするのだ。
天使ルミナよ、よくぞこの首飾りを守ってくれた。今一度君に愛を誓おう。二人の愛は、このピンクダイヤモンドのように永遠だよ、と……。
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