七 HPファミリー

51 大稚からのメッセージ

 スパゲッティを食べ終え、フォークを置く。

 グラスの水を飲み干し、一息つく。


「ごちそうさま。掃除機と拭き掃除は午前中に終えたから、あとは窓だけね。ママ、窓拭き用の洗剤って、あるかしら」

「ええ。洗面台の下にあるから、今、取って来てあげるわね」


 母が、ダイニングチェアから腰をあげる。


「いい。私が取りに行くから。お皿洗いも全部自分でやるから、ママもパパも気にせず、ソファで休んでいて」

「そう。それじゃあ、お願いね」


 母は昼食後の食器をテーブルからキッチンシンクへ移すと、先にリビングのソファへ移動していた父の隣まで行き、腰を下ろす。


 シンク内に置かれた両親二人分の食器は、間もなく姿を消す。


「手伝いは必要ないから、二人とももう、省エネモードになっていいわよ」


 そう伝えると、二人は共に背筋を伸ばして顎を引き、両手を膝上で重ね、数秒のうちに静かになった。

 同時に、一切の気配が消える。こうなるともう、ただの人型人形だ。


 室内が、シーンと静まり返る。


 エプロンをつけ、まずは使用した食器類を洗い、水切りカゴへ引っ掛ける。

 洗面所まで窓拭き用洗剤を取りに行き、雑巾、バケツを手に、窓拭きに取り掛かる。リビング、ダイニング、両親の充電用チェアが置かれた部屋までを順に終え、最後に自室へと場所を移す。


 ジーンズのお尻ポケットに突っ込んであったスマホが反応したのは、ちょうど学習デスクによじ登り、正面の窓にスプレーを吹き掛けた時だった。


 鳴ったのは、メッセージ受信を知らせる着信音。


 垂れる液体が気になりつつも、傍らのバケツに一旦布を引っ掛け、乾拭き用タオルで手をサッと拭いてから、スマホを手に取る。


 メッセージの送り主は、大稚。


 自然と、頬が緩む。冬休みに入って以降、彼からメッセージを受信するのは初めてだ。


 窓を背に腰を下ろし、デスク手前に両足を垂らす。


「…これは…」


 目に飛び込んだのは、ほんの短い、けれど釘付けになる一文だった。


 指先の動きが止まり、思わずゴクリと唾を飲む。

 あまりダラダラ文を綴るタイプの人ではないが、少し言葉足らずというか、意図が読み取れない。


〈会いたい〉


 どういう意味だろう。文字通りに受け取れば、そういう意味なんだろうけど…。


 心臓が、ドキドキし始める。


 そういう意味、なんだろうけど…。早合点は禁物だ。

 ストレートな物言いで女子を惑わせるのは、いかにも大稚らしいところ。

 きっと深い意味はなく、何か急な用事でもあるのかも知れない。


 ひょっとすると、『ひだまり』訪問への誘いだろうか。多恵おばあさんは年末年始、大稚の伯父さんの家に滞在するって言っていたけども…。

 大晦日は明日だし、今日までは『ひだまり』にいるのかな。


 頭の整理がつかず呆然としていると、続けざまにメッセージが入る。


〈今、自宅にいる?〉


 背筋が、ピンと伸びる。

 だらりと垂らしていた足は、ももがピタリと閉じ、つま先まで真っ直ぐ伸びる。


〈会いに行っても、いいかな〉


 衝動的に画面を消し、スマホをデスク隅の一番遠い場所に置く。


 意図が読み取れず、返信の仕方がわからない。こんなことは、初めてだ。

 会いに来る…、って、まさか…ここに…。


 無意識のうちに手は、バケツの布を取っていた。

 窓ガラスに垂れる液体に、サッと布を走らせる。隣のガラスにもスプレーを吹き掛け、布を往復させる。さらに片側の窓を開け、外面にも腕を伸ばす。

 とにかく無我夢中で、窓を拭きまくる。


 外の冷気が体内へ入り込み、鼻水がつーっと垂れる。鼻をすすり、隣の転落防止柵に留まった一羽のスズメと目が合った時点で、ようやく我に返る。


 一体、何をしているのだろう。今は、こんなことをしている場合じゃないのに。


 熱くなった体も、冷気でほどよく冷やされる。


〈忙しかったら、ゴメン〉


 最後に入った、メッセージ。


 窓拭きを言い訳に、いつまでも無視し続けるわけにはいかない。彼は、返信を待っている。既読になっている以上、何か言葉を返さないと失礼だ。


 何気なく、スマホカメラでスズメの写真を撮る。スズメは窓が閉まると同時に、どこかへ飛んで行った。


〈今、自宅にいるよ〉


 スズメの写真を、一緒に送信する。

 別に、深い意味はない。


〈今から、会えないかな〉


 折り返しのメッセージが、直ちに入る。


〈私に何か用?〉

〈今からそっちへ行こうと思うんだけど、かまわないかな〉


「そっち…」


 やっぱり、今からここへ来るつもりのようである。

 かまわないかなと、言われても…。


 スマホを持つ手に、力が入る。


〈もう家を出ているから、あと五分ほどで着くと思うんだけど〉


 は?


「ちょ、ちょっと待って」


 思わず、スマホに向かって叫ぶ。


〈本当に今から、うちへ来るつもりなの?〉


 慌ててメッセージを打ち返すと、少しだけ間が空いた。


〈実は、渡したいモノがあるんだ。母親がばあちゃんの件で、お礼がしたいって言っていて〉


 文面には、弱冠変化が生じている。おそらく、こちらの動揺を察したのだろう。

 ようやく、目的を告げる。聞いてみれば何てことはなく、本当にややこしい人である。


 そういうことなのか。焦って、損をした。


〈お礼なんて別にいいよ。私の方が、お世話になっているんだし〉

〈近くまで来たら、また連絡するよ〉


 一方的に、話を進める。なかなか強引だ。


 急ではあるけども、すでにこちらへ向かっているのであれば仕方がない。断る、適当な理由もない。


〈それじゃあ、団地入り口ゲート前の、コンビニまで来て。迎えに行きます〉


 何とか文字を打ち、送信する。


 近くまで来れば、コンビニはすぐにわかるだろう。

 住所を教えたことはないけど、たぶん駅かどこかで訊ねて来るに違いない。


 京文HP区内にあるHPファミリー居住地区は、一箇所のみ。ネット上ではマップアプリも含め、防犯上の観点から一切公表されていない。

 けれど、地元の人間はみんな場所を知っている。

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