49 楢野大稚(7)難題

 共同研究者である両親が、東京の提携する大学へそろってアドバイザーとして招かれたのは、時期的にも絶妙のタイミングだった。何でも、新しく開発された医薬品の実用化へ向け、製薬会社を交えた治験が行われるとか、何とか。

 両親は、遺伝子治療研究のエキスパートである。


「東京へ行くわよ」


 ある日の朝、母が言った。

 言葉を理解したその瞬間、目の前に光が差した気がした。

 母の目にはきっと、驚きのあまり声も出ない、目と口が大きく開いた息子の顔が映ったに違いない。


 これは、天の声だ。

 神様から、使命を与えられた。

 そう錯覚したほどで、目に見えない糸のようなものを感じた。


 そしてその糸は、東京に着いたその日に、運命の赤い糸に変わった。

 あの偶然の遭遇を「運命」と言わずして、何と言おうか。


 突然視界の中に飛び込んで来た、紗良そっくりの女の子。

 幻でも、亡霊でもない。生身の人間。


 HPC。

 その存在を始めて目にし、身震いがしたのを覚えている。


 もちろん、確証があったわけではない。ただの直感だ。

 けれどその直感を否定できる要素は、何もなかった。そのくらい、少女と紗良はよく似ていた。

 まるで、姉妹のように。


 あの瞬間、すべての音が消え、流れる景色も止まったように見えた。

 足が勝手に動き、気付けば自転車の前に飛び出していた。


 小園アイリ。さくら中学校二年生。


 どこか懐かしい声に胸の奥が揺さぶられ、一瞬天国へ来た気分にもなった。

 不思議な感覚だった。


 一応誤魔化しはしたけど、あの時の言動が彼女を傷つけたのではないかと思うと、今でも胸が痛む。


 …さて。これから、どうしようか。


 村元綾香と小園アイリの血縁関係は、たしかに証明された。

 髪の長い女の子の毛髪を手に入れるのは、それほど難しい作業ではなかった。

 二人は、血のつながった母と娘で間違いない。


 今すぐにでも、母娘を対面させたい気持ちは、当然ある。けれどさすがにそれは、難易度が高過ぎる。


 HP法では、ドナーとHPCとの意図的な接触は禁止されている。


 ドナーに無関心な彼女であっても、法律については理解しているだろう。会って欲しいと素直にお願いしたところで、拒否されるのは目に見えている。


 小園アイリに、真実は話せない。


 綾香おばさんとて、同じだ。彼女が知らない状態なら、黙って対面を受け入れる可能性はあるが、認知しているとわかれば、会わないと拒むに決まっている。


 二人を会わせるためには、偶然の遭遇を、演出しなくてはならない。

 啓祐さんと小園アイリが、出会った時のように。


 東京と札幌。周囲や本人に怪しまれないよう連れ出し、偶然を装って対面させる。


 …難題だな。


 少なくとも、自由に動ける年齢になるまで、行動を起こすのは無理そうだ。中学生だけでの長距離移動は、難しい。


 明かりが消えたままの天井のシーリングライトへ、焦点を定める。昼間とはいえ、周囲をマンションで囲まれた我が家の室内は、普段からやや薄暗い。


 シーリングライトのカバーに透ける、環型LEDランプがなぜか気になり、その時ふと思った。


 …もし綾香おばさんの健康状態が相当悪いなら、ひょっとすると、そんなに長くは待てないのではないだろうか。まさか…、まだ死にはしないと思うけど…。


 今は遠ざかっているが、綾香おばさんは最先端遺伝子治療の研究に携わっていた、元研究者である。知識と技術を持ってすれば、他人だけではなく、自分自身の命だって救えるハズ…。

 …そう、信じたいけど…。


 ちゃんと、おばさんとの約束を果たせるだろうか。

 生きている間に、彼女を会わせられるだろうか。

 もうほんの少しのところまで来ているのは、間違いないけども…。

 ああ…、悩ましい。


 母ではないが、長い溜息がもれる。


 とにかく今は、いくら考えたところで、妙案は何も浮かばない。中学生の身分では、できることが限られている。この年齢が、恨めしいばかりだ。


 年明けには、札幌で綾香おばさんと面会する予定になっている。

 今はおばさんが少しでも元気になれるよう、自分ができることをするしかないだろう。


 自分が、できることを…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る