48 楢野大稚(6)奇跡

 あの日、札幌から東京へ引っ越す、前日。

 一人でこっそり、綾香おばさんの元を訪れた。念のため、親子鑑定ができる何かを手に入れるためである。


 直接要求すれば拒否されるのは目に見えていたので、とりあえずヘアブラシを持参した。不審な行為に疑問を抱かれるのは、百も承知だった。けれどひょっとしたら、気付かないフリをしてくれるのではないかという、予感のようなものがあった。


 そしてその予感は、的中。おばさんはほんの少し躊躇うも、諦めた様子で首を縦に振ってくれた。

 中学生のしつこさに、もはや説教する気力も失せていたのかも知れない。


「キレイにしてね」


 囁くように言うと、束ねていた髪をほどき、背中を向けた。

 腰辺りまで伸びる、長いストレートの髪。

 手入れされていない毛髪は痛みが激しく、ところどころ白髪も見えていた。ブラシでとくと、細くて弱々しい毛髪がたくさん取れた。

 想定外の量の多さに、愕然としたほどだった。


 何となく罪の意識に苛まれていると、おばさんが下を向いたまま、ポツリとつぶやいた。

 吸った息を吐き出すように、さりげなく。


「もうこん…」


 その言葉を、聞き逃しはしなかった。

 毛髪からのDNA親子鑑定には、毛根が欠かせない。そういう意味なのだと、すぐにわかった。


 ブラシを置き、根元から数本、毛髪を抜かせてもらった。おばさんは目をつぶったまま、何も言わず、ただじっとしていた。たぶん痛みもあったと思うけど、顔色ひとつ変えなかった。


「何年かかってでも絶対に見つけ出して、おばさんの元へ連れて来るよ。だからそれまで、元気で待っていてね」


 そう言うと、わずかに口角を上げ、無言で首を横に振っていた。


 しかし柔らかく微笑むその瞳の奥に、何かを託す意思が宿っていたのは、気のせいではなかったハズである。


「大稚君の気持ちだけで、十分よ」


 あの時からまだ、数ヶ月も経っていない。

 だけど、奇跡は起こった。

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