六 楢野大稚

43 楢野大稚(1)電話

 廊下にある木製ラックの上に置かれた電話機が鳴ったのは、中学校が冬期休暇に入って二日目の、土曜日の朝だった。

 母が受話器を手に取り、応答しながらリビングのソファに腰掛ける。着信通知を確認した時点で表情を曇らせていたが、会話中もいつになく神妙な面持ち。

 ソファのヘリに片肘をつきながら、相手の話に静かに相槌を打っている。


 言葉のイントネーションから、通話の相手が北海道の知人であることは、すぐに察しがついた。母は同郷の人間と話す際には、自然と訛りが出る。


 しばらく会話して通話を終えると、廊下へ出て、受話器をそっと木製ラックの上へ戻す。

 視点の定まらないぼんやりした眼差しで廊下を行ったり来たりし、一旦立ち止まると、肩を大きく上下に揺らす。長いため息は、数メートル先の突き当たりにまで達した。


「困ったわあ、どうしましょう」


 ひとり言にしては遠慮がない、周囲の耳に届く声。


「母さん、どうかしたの。電話、誰から」

「ああ、大ちゃん」


 息子に声を掛けられると、弱冠表情が和らぐ。


「北海道の、村元さんからよ。紗良ちゃんの、お父さん」


 電話の相手は、母が札幌にいた頃の研究室の後輩であり、友人でもある女性の、夫だったようだ。

 紗良は夫妻の、一人娘。


「紗良ちゃんのお母さんが、また入院したんですって」

「へえ。また、精神科の病院」

「それが、今回は違うみたいなの。詳しくはわからないけど、どこか体の具合が悪いみたい。紗良ちゃんが一周忌を終えたばかりだっていうのに、心配だわ」


 心底心配するように、肩を落とす。


 幼馴染でもある一つ年下の村元紗良が、事故でこの世を去ったのは、およそ一年前のこと。雪道を歩いていた際、不運にもスリップした乗用車に跳ねられ、一緒にいた母親の目の前で死んだ。即死だったと聞いている。運転していたのは、雪道の運転に不慣れな、旅行者だった。


 最愛の一人娘を守れず、目の前で失ったショックにより、以来母親は精神を病んでいる。精神科への入退院を繰り返し、仕事はしばらく休職していたが、半年ほど前に自主退職している。


「重い病気なの」

「はっきりとは言わなかったけど、間違いなさそう…」

「…そっか。お気の毒だね。だったら母さん、北海道までお見舞いに行ってあげたらいいよ。おばさんも、会いたいんじゃないかな」

「ええ。できればそうしたいんだけど、年明けには大事な学会があるから、今はその準備で忙しいのよね」


 左手を頬に当て、ため息をつく。


「困ったわあ、どうしましょう」


 同じ言葉を、何度も繰り返す。

 こういう時の母は、頭がかなり混乱している。


「それじゃあ、僕が母さんの名代として、お見舞いに行って来ようか。綾香おばさんのことは、よく知っているし」

「そうねえ」


 心ここにあらずの、空返事。耳に届いているのかどうかも、わからない。

 きっと今頭の中では、自身のスケジュールをどうにかしようと、格闘が繰り広げられているに違いない。


「塾の冬期講習は二十九日までだから、年末年始なら行けるよ。北海道までだったら、僕一人でも大丈夫。札幌のじいちゃんとばあちゃんにも、久しぶりに会いたいしさ」

「そうねえ」

「平気だってば」


 腕をぐいっと引っ張ると、ようやく視点がこちらへ定まる。

 何の話? とでも言わんばかりの顔が、少し腹立たしい。


「年末年始に、綾香おばさんのところへ、お見舞いに行って来てあげるよ。僕も新しい学校の話とか、いろいろと報告があるし」

「え、あなたが」

「札幌のじいちゃんばあちゃんの家に泊まればいいんだから、別に問題はないだろ」

「それは、構わないけど…。でも年末年始のチケットなんて、今から取れるかしら。人も多いでしょうから、中学生一人でなんて心配だわ。東京は駅も空港も、北海道とは違うのよ」


 一瞬希望を見出し、表情を緩めるも、やはり現実的ではないというように首を横に振る。

 一応親として、息子の安全は心配するようだ。


「…平気だと、思うけどな」

「でも、ありがと」


 息子の頭を手で二回撫でると、木製ラックの上に鎮座する木彫りの熊を見つめ、ハアと何度目かのため息をつく。

 木彫りの熊は、北海道を去る際、職場の人たちから餞別にと贈られたものである。


 その熊がうっすらほこりを被っているのに気付くと、手に取り、カットソーの袖口で胴体を拭き始める。


「大掃除も、しなくちゃね」


 再び、遠くを見る目。

 たしか少し前に、「引っ越して来た時にお掃除をしたから、今年の大掃除は必要ないわね」と、言っていた気がするけど…。

 言葉はたぶん、習慣から出ただけだろう。


「…ところで大ちゃん。お母さんに何か、用事でもあるのかしら」


 コットン素材の袖口が、ちょうど足の部分へ移った時だった。

 普段ほとんど顔を見せない息子が廊下まで出て来ていた違和感に、ようやく気付いたようである。

 実際こちらも、北海道からの電話が気になって、出て来ていたわけではない。


「ああ、うん。ちょっと母さんに、頼みたいことがあって」

「まあ、頼みごと」


 手が止まる。顔を上げると、大袈裟なほどに瞳をキラキラ輝かせる。

 滅多にない息子からの頼みごとに、いたく感激した様子だ。目をパチクリさせ、木彫りの熊を愛おしそうに、胸元でギュッと抱きしめる。


 何だか…、少し萎える。


「大ちゃんがお母さんに頼みごとなんて、珍しいわね。一体何かしら。何か欲しいモノでもあるの。モノによっては、お年玉を増額してあげるから、それで買ってもいいわよ」


 普段放ったらかしにしているわりには、たまに頼られると、親心がくすぐられるようだ。

 まるで春が来たかのように浮足立つ姿には、本気で呆れさせられる。


「その…、実は、DNAの、親子鑑定をしてもらいたいんだよね」

「…え」


 春を謳歌する母の表情が、一瞬にして凍りつく。腕の力も抜け、危うく木彫りの熊を落としそうになる。寸でのところで足の付け根辺りを掴み、再び胸元へ押し付ける。

 みるみる不信感を募らせる、大きな瞳。


 予想してはいたけど、こうもストレートに感情を露わにされると、さすがに罪悪感がわく。


「親子鑑定って…、一体、誰と、誰の」

「母さんと、僕」

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