四 本間啓祐

32 本間啓祐(1)過去の記憶

「お帰りなさい。今日も遅かったわね。お疲れさま」


 いつものように、妻が玄関まで出迎える。

 時刻は午後十時過ぎ。最近はスタッフが一人減ったせいもあり、残業になる日が多い。

 今日は午後からの出勤で、八時までの勤務予定だったが、雑務に思いのほか時間を取られてしまった。


 一人息子の太郎は、すっかり夢の中だ。


「それじゃあ、私はもう休ませてもらいますね。お夕飯はいつも通り、テーブルの上に用意してありますから、チンしてくださいね。おやすみなさい」


 共働きのため、食事にまで付き合ってもらえないのは、仕方がない。


「おやすみ」


 妻が寝室へ入るのを見送ってから、浴室へ向かう。強めの熱いシャワーを頭から一気に浴び、温めのお湯にじっくり浸かって、一日の疲れを癒す。

 入浴後は、軽い食事。冷めたおかずをそのまま手早く口に入れ、夕飯を終える。食事はホームで軽く済ませてあるため、ご飯は必要ない。食器をサッと洗い、水切りラックに置く。

 これがいつもの、ルーティーン。


 一通りやり終えてから、ソファに深く腰を下ろし、テレビをつける。寝る前にニュースを見ながら晩酌するのが、毎晩の日課だ。


 ニュースではちょうど、ベプセル・ネグレクトの問題が取り上げられていた。

 近年社会問題になっている、カプセル型人工胎児育成装置『ベプセル』を利用して子を授かった親による、育児放棄の問題である。

 近ごろは女性の仕事への影響や身体への負担などを考慮し、手軽に出産できる一般向けベプセルを利用する夫婦が増えている。

 しかし妊娠期の過程を得ないためか、親になる自覚を持たずして子を持つ夫婦が少なくなく、それによってさまざまな弊害が生じている。


 テレビでは顔にモザイクの掛かった一人の男性が、妻が子に愛情を持てず虐待していると訴える姿が、映し出されている。普段なら関心を持って耳を傾ける、悲劇的なニュース。


 しかし今夜に限っては、そんな興味深いニュースの内容も、ほとんど耳には入らない。

 マスコミが、HPプロジェクトの闇を暴こうと、裏で動いている。

 今はその件で、頭がいっぱいだ。


 以前の自分だったら、大して関心を持たなかったかも知れない。だがHPCの少女と関わるようになった現在は、無関心ではいられない。

 不要になったHPCが、殺処分されている。それが事実なら、とんでもないスキャンダルだ。


 楢野婦人の発言も、気に掛かる。

 ご婦人は孫が連れて来たさくら中学校二年生の小園アイリが、この私の娘だと言った。認知症の老女が言うことなので、ただの思い違いだろうと初めは軽く受け流したが、それにしては妙に自信に満ちた口調で、やけに説得力もあった。元遺伝子の研究者という経歴もあるだけに、あながち無視できない気にもさせられた。たとえ認知機能に問題があったとしても、過去に培われた技能までが失われるとは、限らないからだ。


 もちろん、隠し子などいない。

 年齢から遡っても、身に覚えがまったくないのだけは、神に誓ってはっきり言える。十四、五年ほど前と言えば、大学を卒業し社会人になったばかりで、結婚どころか、恋人すらいなかった。毎日相手にしていたのは、高齢者ばかり。スタッフにも若い女性はいたが、あの頃は恋愛よりも、仕事のスキルを磨くことの方が最優先だった。


 だから、あの少女が隠し子というのはあり得ない。


 けれどただ一つだけ、思い当たるフシはある。

 初対面の時のあの瞬間までずっと忘れていたが、あの子と目が合った瞬間、フッとある記憶が脳裏に蘇った。


 まさか本当に、あの小園アイリという名のHPCは、自分の娘なのだろうか。

 娘と呼ぶには語弊があるが、社会的な親子関係はなくとも、同じ遺伝子を受け継いだ人間なのであれば、娘ということになる。

 生物学上の、「子」という意味だ。


 彼女がHPCである事実は、出会った日に、区役所のサイトから確認できた。区では区民の協力を得る目的で、居住するHPCの顔写真と氏名、生年月日を、サイト上で公開している。区民だけがマイナンバーチップを使ってログインし、情報を閲覧できるようになっている。そのリストの中に、小園アイリはたしかにいた。生年月日から言って、現在は十四歳の、中学二年生。


 あの頃、いつかこんな日がやって来ようとは、一体誰が想像できただろう。あまりにも突然突きつけられた現実に、身震いがしたほどだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る