29 突風
目を地面に落としたまま、丸まる背中。向かい風ではあるけど、歩く速度もいつもより遅い。
ずっと無言で、時折ため息をつく。
後ろから来る市バスのヘッドライトに背中が照らされた時だけ、肩が反応した。バスが横を通り過ぎる間、目は地面に映る自身の影の動きを追う。
たぶん、無意識で。
さっきは何でもないって言っていたけど、まだ迷っているのは、間違いなさそう。
運命という言葉に反応したようだったけど、一体何が気に掛かったのだろう。
運命。HPCの運命。
そんなにあからさまな背中を見せられると、気になって落ち着かない。
大稚の長いマフラーが風に煽られ、先端が目の前すれすれにまで迫る。いつもなら気付いて対処してくれるけど、今日は顔に当たりそうになっても、まるで無関心。
やれやれ。
言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってくれていいのにな。
高台から下りる階段付近まで来ると、大稚は一旦足を止めた。風が気になったようだった。師走も半ば。風はいつにも増して、階段下から吹き上げている。葉を残す周辺の木々も、横に大きく揺れている。
時折ピューっと音を立てて吹き上げる突風は、まるで魔物のよう。
風が弱まるのを待ってから、階段を下り始める。まだ考え事に夢中なのか、時々風に煽られてバランスを崩し、段を踏み外しそうになっている。
こんなことは、本当に珍しい。いつもなら風に関係なく、颯爽と下りるのに…。
ひとまず遅れを取らないよう、後に続く。スカートが捲れ上がらないよう手で押さえながら、一段ずつ下りる。背中まであるストレートの髪は、風に煽られ乱舞。だけど気にしている余裕はない。
三度目に突風に襲われた時には、ついに足が止まる。
今日の風は、かなりキツイ。
前方へ目を向けると、大稚も足を止めている。けれど彼が下から数段残した辺りで足を止めたのは、突風に押されたのが原因ではなさそうだった。ほどなくして風が弱まっても、足を動かそうとしない。
両手をコートのポケットから出し、力なく垂らしている。
階段下で渦巻く落ち葉にでも見入っているのか、一切の動きを止めている。
「楢野君、どうかしたの」
ようやく追いつき、一段後ろから声を掛ける。反応がないので、背中のリュックをポンと叩くと、次の瞬間、まるでモグラが穴の中へ引っ込むようにストンとお尻が落ちた。
「やだ…、大丈夫」
「…ああ、うん」
力の抜けた足を、ダラリと前へ伸ばす。
両目はずっと、風でくるくる舞う落ち葉から離れない。
「ねえ。さっきから、おかしいわよ。どうしたの」
「…そうだね。ゴメン」
「別に、謝らなくてもいいけど。私に何か言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってね」
「いや…、うん」
こちらから水を差し向けても、まだ煮え切らない態度。
「…その」
風の音が止む合間を見計らい、ようやく口を開く。
「実は以前からずっと、気になっていることがあって」
「気になっていること」
それはHPCの運命と、何か関係しているのだろうか。
「HPCについてというよりも、小園について…、なんだけど」
「私について…」
何だろう。
「きっと、訊くべきではないのかも知れない。だけどどうしても、頭から離れなくなってしまって。さっき小園が、運命っていう言葉を使ったから」
運命。やっぱり。
そうまで言われると、話を聞かずにいられない。
「私のことだったら、心配しないでね。知りたいことがあるなら、何でも訊いてくれていいわよ。全然、平気だから」
気丈に答えると、口元が弱冠緩む。
「あ、寒いよね。ゴメン。このマフラーを、使って」
気付いて立ち上がると、首からマフラーをはずす。遠慮するよりも先に、チェック柄の長いマフラーが肩に巻かれる。
座って話をするほど快適な場所でもないけど、ここから動くつもりはないようだ。
まあ、上部ほど風はキツくないし、この場所がいいならそれでも構わない。
「マフラー…、ありがとう」
髪の毛が数本巻き込まれて少し痛かったけど、さっきよりはずっと暖かい。
スクールバッグを間に置き、隣り合って腰を下ろす。
コンクリートの階段は案の定座り心地が悪く、ひんやりした冷気はすぐにお尻へ伝わった。黒のニーハイソックスを最大限まで引き伸ばし、スカートで膝を覆う。
「それで、楢野君がずっと気になっていることって、何かしら」
間近に顔があると、途端に緊張感が増す。
もう少し、間隔を空けた方がよかったかな…。
「その…、小園に一つ、確認させてもらいたいことがあるんだけど、いいかな」
「確認」
「ちょっと、事情があって…。気を悪くしたら、申し訳ないんだけど…」
慎重で、躊躇いのある言い方。どことなく、亜沙乃南朋と重なる。
だからすぐに、察しがついた。
きっと、何かタブーな内容であるに違いない。
「心配しないで。私は何を訊かれても、平気だから」
そう言いつつも、手袋を嵌めた手に、じわりと汗がにじむ。
自然と体が、警戒態勢に入る。
「ありがとう。それじゃあ、その言葉に甘えさせてもらうよ」
「…ええ」
話を続ける前に、前を向く。
「その、確認したいことっていうのは…」
「何…かしら」
膝上に乗せた手が、ギュッとしまる。寒さのせいもあり、つま先まで縮こまる。
「小園は、自分のドナー…について、どう考えているのかな…って」
「…は」
それは、拍子抜けするほど、他愛ない質問だった。
「ドナー」
身構えたのが馬鹿らしく思えるほどで、握りしめていた手も瞬時にほどける。
ちょうど風が巻き起こり、長い髪が顔を覆ったため、間抜けな表情を見られなかったのだけが幸いだった。
南朋もだったけど、大稚も妙な質問をする。
少なくとも、HPCとの関係性だけは、はっきりしているけれど…。
尊厳死の次は、ドナー…か。
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