10 勘違い
タイミングよくその人物がレクリエーションルームに姿を現したのは、ちょうど多恵おばあさんの眼差しが険しさを増し、喉をエヘンと鳴らした時だった。
「啓祐さん」
大稚が救われたように、安堵の表情を浮かべる。
「やあ、大稚君。今日は学校帰りに、おばあさんに会いに来てくれたんだね。お孫さんが会いに来てくれて、楢野さんはお幸せですね」
爽やかな笑顔が印象的な、白衣のとてもよく似合う、四十歳前後の男性。この人物が、介護福祉士の本間啓祐氏らしい。レクリエーションルームにいる人々全員に、そろそろ食堂へ向かうよう、声掛けをしに来られたようだった。先に他の方々へ声掛けをし、最後に車イスの多恵おばあさんの元へやって来た。
当人は俯き、力の入った細い指先で、カーディガンのボタンをいじっている。よく見るとカーディガンには、何度もボタンが付け直された跡がある。感情が乱れると、ボタンをいじる癖がおありのようだ。
そして再び、エヘンと喉を鳴らす。
それを耳にした啓祐さんは、こちらが説明するまでもなく、様子がおかしいことに気付いた。
やれやれと言うように、眉を垂れる。
「大稚君、何があったの」
「啓祐さん、ここにいる女の子は、あなたのお嬢さんなのよね」
先に口を開いたのは、多恵おばあさん。
意表を突かれた啓祐さんが、口をポカンと開ける。いきなり赤の他人と親子にされたのだから、無理もない。
「いいえ、違いますよ。私に、こんな大きな娘はおりません。五歳になる息子が、一人いるだけですから」
戸惑いを交えながら言う。
側で気まずそうに肩をすくめる二人の中学生の姿を見ると、あはははと笑った。
「あら、あなたまでそんなことをおっしゃって、私を騙すの」
「騙すだなんて、とんでもない。彼女は大稚君の、新しくできたお友達でしょう」
「そうだよ、さくら中学校二年の小園アイリさん。さっきから、そう言っているだろ」
「そんなハズはないわ。私は四十年以上ずっと、遺伝子の研究をしていたのよ。親子は後ろから歩く姿を見るだけでも、わかるくらいなんですから」
よほど思い込みの激しい性格なのか、なおも引き下がらない。長年の経験で培われた自身の感性に、すこぶる自信をお持ちのようである。
遺伝子の研究者をされていたとは、素晴らしい経歴をお持ちだ。
それにしても、驚かされるのはその口振り。先ほどの噛み合わない会話からは想像もできないほど、しっかりされている。自身が何を言っているのか、ちゃんと理解されている。まるでもう一人、別の人格が顔を出しているよう。
「そう言えば楢野さんは、研究者をされていたのでしたね。今は息子さんが、後を引き継いでおられるのだとか」
「そうよ。この子の父親と、嫁がね。北海道の大学で、今も遺伝子の研究を行っているわ」
なるほど。大稚のご両親は、研究者をされているのか。
残念ながら多恵おばあさんは、息子家族が東京へ越して来たという事実については、相変わらず理解されておられないご様子。
「だから私には、このお嬢さんがあなたの娘さんということくらい、言われなくてもわかるのですからね」
説得力があるのかないのか、よくわからない。一度宣言すると頑として譲らないのは、きっと高齢者特有の自尊心なのだろう。
さすがにプロの啓祐さんも、手を焼かれている。しばらくは冗談を交えながら話を合わせるも、次第に疲れが見え初めている。
時計の針は、すでに午後五時半を回っている。
気付けばレクリエーションルーム内は、四人だけになっている。
「わかりました」
するととうとう、啓祐さんが腹を括るように言った。何か妙案が、浮かんだようだ。
こちらを向いて姿勢を正すと、L字型にした指を顎に添え、腰を屈める。真剣な眼差し。その目は、先ほど多恵おばあさんがしたのと同じように、頭のてっぺんからつま先までをスキャンする。まるでテレビドラマに出て来る刑事さながらで、込み上げる笑いを堪えなくてはならないのが、結構つらい。
一瞬だけ、ピタリと動きを止める。目を大きく見開くと、口元を震わせ、驚愕とも言える表情を浮かべる。なかなかの演技力。
少しだけ、背筋がゾクッとした。
「…そのように言われてみれば、たしかにちょっと、似てはいますね。知らない間に、息子にはお姉さんができていたのかな」
冗談とも、本気とも受け取れる口調。
数秒後、固まった表情筋をほぐすように、またあはははと笑う。
明るい笑い声が、ガランとした室内に響き渡る。
「まあ、あなたまでもがそんな風におっしゃって。誠実な方だと、思っておりましたのに」
残念ながら、渾身の演技は惨敗に終わったようである。たしかに期待するほどの、オチではなかった。むしろ、逆効果に近いとも言える。室内にいる動物型ロボットたちすら、無反応。
ひと言で言うと、スベッタ。
「も、申し訳ありません」
本人も不本意な結果に気付くと、慌てて姿勢を正し、頭を下げて陳謝する。
「ですが楢野さん、私が彼女の父親というのはあり得ませんよ。彼女が生まれた当時、私はまだ二十三、四で、結婚すらしていないのですから」
「あら、結婚などしていなくても、子供はできますわよ」
「それは、そうですが…」
含みを帯びた言い方をされ、苦笑いする。
「弱ったなあ」
左手で、後頭部を掻く。右手は、白衣のポケットに入れている。
「そうだ。楢野さん、お腹がすかれたんじゃないですか。もう夕食の時間ですから、一緒に食堂へ参りましょう」
誤魔化すように話題を変えると、ポケットから出した右手の拳で、左手のひらを一回ポンと叩く。そして襟を正し、車イスの後ろ側へ回る。
「あら、もうお夕飯の時間なの」
「そうですよ。他のみなさん方はもう、食べ始めておられます」
「まあ。そう言えば、お腹がすいたわねえ。今日のお夕飯は、何かしら」
驚くことに、食事の話が出た途端、多恵おばあさんはまるで頭のスイッチが切り替わったように態度を一変させた。表情に、無邪気な明るさが戻る。すべての関心事が、自身の空腹へと向いたようだった。
その変化に、場にいる全員の肩から力が抜けたのは、言うまでもない。
大稚も、呆れ笑いを浮かべている。
「ばあちゃんは、食いしん坊なんだよね」
ポツリとこぼす。
高齢者が食への執着を見せるのは、良いことだ。
「それじゃあ啓祐さん、僕たち、今日はこれで失礼します」
「ああ。ご苦労さまだったね。もう大丈夫だよ」
今が先ほど言っていた、帰るタイミングのようである。
啓祐さんが、小さく親指を立て、右目でウインクする。
「大ちゃんたち、またね~」
車イスの多恵おばあさんが、陽気に手を振る。
「あ、そうだ。大稚君」
啓祐さんが、車イスを一旦止める。
「これ」
白衣のポケットから何かを取り出し、大稚に手渡す。
「これっ…て」
「スタッフが一人辞めたから、新しい人が来るまでの間、貸してあげるよ」
丸い輪の形をした、一対のブレスレット状の物体。
「ホントですか。やったあ。ありがとうございます」
嬉しそうに受け取る。
「ところで君、小園…あいりちゃんて、言ったよね」
「はい。はじめまして。よろしくお願いします」
いろいろと込み入ったので、挨拶が遅れてしまった。
「さくら中学校の生徒さんということは、駅向こうに住んでいるのかな」
「はい、そうです」
「…そっか。もう暗くなって来たから、気をつけて帰りなさいね」
「どうも。お邪魔しました。失礼します」
途中まで一緒に行き、食堂の前で別れる。
多恵おばあさんは、意識が完全に食事へ向いているようで、最後にこちらを見てはくれなかった。大稚が「じゃあね」と言っても、返事がない。
お腹がすいておられるなら、仕方ない。
廊下で会った百合子さんにも挨拶をし、大稚と一緒に『ひだまり』を後にする。
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