9 認知症
「それで大ちゃんは、東京へは修学旅行で来ているのかしら」
「違うよ。今はここからすぐ近くの、じいちゃんとばあちゃんが住んでいたマンションに、家族で住んでいるんだよ」
「あらそう。家族で住んでいるの。それなら安心ね」
「これからはもっと頻繁に、ばあちゃんに会いに来るからね」
「まあ、私に会いに来てくれるの。嬉しいわあ。それで大ちゃんは、北海道へはいつ戻るのかしら」
何とも不可解なやり取りが続く。
どうやら多恵おばあさんは、口調こそしっかりしているものの、認知機能に問題を抱えておられるようだ。孫が北海道から、家族と共に東京へ引っ越して来たという事実を、なかなか飲み込めないでいる。
「あら、そちらのあなたは」
その時、つぶらな瞳がこちらへ向いた。
「あ、私は」
「もしかして、あなたは」
こちらが挨拶もしないうちに、車イスから身を乗り出す。膝上にいた猫型ロボットが、体を起こして床へ降りる。
近づく顔が、次の瞬間パッと華やいだ。まるで珍しいものでも目にしたように、目や口が大きく開かれる。ショーウィンドウに目を奪われる子供のようで、こんな言い方をしてもいいのか、可愛らしい。いたく興味津々のご様子。
孫が連れて来た友人が、女の子だからだろうか。好奇心に満ちた瞳だけを見れば、年齢を感じさせない若々しさ。
早速、頭からつま先までがスキャンされる。
遠慮ない目で観察されるのには慣れているけど、今回は状況が異なるだけに、少し緊張する。
「あの、私は」
「まあ。あなたは、啓祐さんのお嬢さんね」
「…へ」
口先まで出掛っていた自己紹介の言葉が、奥へ引っ込む。手に持つコートをグイっと引っ張られ、あやうく床に落としそうになる。
けいすけさん?
「ばあちゃん、違うよ。彼女は、小園アイリさんっていうんだ」
「あなたのお父さまにはいつも、とてもお世話になっているのよ」
どうやら、誰かと勘違いをされているようだ。
大稚が慌てて訂正するも、耳を貸さない。
「可愛らしいお嬢さんね」
胸の前で両手を合わせると、拝むようにお辞儀する。
いや、仏様ではないのだけど…。
何でも拝むのが、クセになっておられるのだろう。
頭を垂れ、一旦膝に視線を落としてから、再びこちらへ目を向ける。
そして、右手が前へ差し出される。カーディガンの袖口から、華奢な指先がのぞく。シワだらけのその指は、わずかに揺れている。
いろいろと頭の中は、混乱中。
けれど求めているものが何なのかは察しがついたので、一応大稚の了解を得てから、両手でその手を握る。
触れた瞬間、手にずっしりとした重みが加わる。腕の力を、完全に抜かれたようだった。手はとても冷たく、強く握れば折れてしまいそうなほどに頼りない。指は意外と長く、爪はキレイに切られてある。
「あの…、初めまして。私は〝小園〟アイリと言います。大稚君とは学校は違いますが、ふとしたきっかけで知り合いになって」
「そう、あいりさんって言うの。素敵なお名前ね。おデコと顎の形が、お父さまにそっくりだわ」
「…はあ」
勘違いに気付いてもらおうと、あえて苗字の部分を強調したつもりだったけど、効果はなかったよう。一度思い込むと、信じて疑わないタイプなのだろう。おっとりして見えて、なかなか頑固者なのかも知れない。
「ばあちゃん、彼女は東京で知り合った新しい友人で、啓祐さんの娘ではないよ」
啓祐さんとは、この施設で働く介護福祉士の本間啓祐(ほんまけいすけ)氏のことだと、大稚が手短に教えてくれた。多恵おばあさんが、この場所で唯一、信頼を寄せている人なのだという。
「あら、そうなの。違うの。おかしいわねえ」
否定されると、キツネにつままれたように首を傾げる。なお釈然としない様子で、顎をしゃくる。
再び落ちそうになるほど車イスから身を乗り出すと、今度はまるで鑑識官のような鋭い目つきで、体の隅々までをくまなく観察する。冷たい手が、顔や腕、肩に触れる。ふくらはぎを触られるのは、少しくすぐったい。
「やっぱり、啓祐さんのお嬢さんで間違いないわ。私には、ちゃんとわかるのよ。大ちゃん、冗談を言って、からかうのはよしてちょうだい」
お考えは、変わらないよう。
「からかってなんか、いないけど…。ばあちゃん、僕の友達に変なことを言わないでよ」
「変なことなんて、言っていないわよ」
どうしたものか。
自ら違うとこの場で否定すべきなのだろうけど、この様子だと、すんなり聞き入れてもらえるのか疑問だ。それに認知症の方を下手に刺激すれば、怒らせてもしまいかねない。
今はただ、大稚に任せて黙っている方が賢明そうである。
「ゴメン」
肩越しに謝る声。すぐに、首を横に振って応える。
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