8 多恵おばあさん

 レクリエーションルームは、長く伸びる廊下の一番奥、突き当りに位置している。横長のプレートは、ここからでも確認できる。


 百合子さんによると、おばあさんはそこにおられるよう。


「僕について来て」


 食堂を過ぎると、その先からは入所者の居室が並んでいる。

 居室のドアはスライド式で、どこも解放されており、代わりに目隠し替わりの暖簾がドア枠に垂れ下がっている。古風な浮世絵からキャラクター、アニメのイラストまでさまざまな絵柄があり、とても個性的。


 いくつかの部屋は、出入りしやすいよう暖簾も開かれてある。


 不躾ながら、暖簾の開かれた居室内部を、歩きながらそっと覗く。八畳ほどある洋室には、ベッドが一台。入口付近に、洗面台が備わっている。中にはテレビやPC、ゲーム機などが持ち込まれている部屋もある。自由な空間は、居心地も良さそうだ。


「こんにちは。お邪魔します」


 行き交う人たちに挨拶すると、もれなく優しい笑顔が返って来る。みなさん、孫やひ孫を見るような目で、眉を垂らす。

 訪問者を歓迎してくれているみたいで、嬉しい。


「ばあちゃんの部屋は、ここなんだ」


 教えられた部屋も、出入りしやすいよう、暖簾が大きく開かれている。プレートには、『楢野多恵(ならのたえ)様』とある。中に人がいる気配はなく、百合子さんの言った通り、ご本人は不在のようだ。


「やっぱり、いないみたいだね。レクリエーションルームは、このすぐ先だから」


 居室内には入らず、そのまま突き当りまで進む。


 レクリエーションルームの自動ドアをくぐると、すぐさま正面の大きな壁掛け時計に目が留まった。入って一番最初に目につく場所に、アナログタイプの振り子時計が掛けられてある。デジタルに慣れていると、たまに数字のないアナログ時計に困惑することがあるが、この時計にはちゃんと数字が入っているので読みやすい。


「もう、五時を過ぎているわね」

「そうだね」


 五時半の夕食開始までは、あと三十分弱。あまりゆっくりはできない。


 大稚は広い空間を見渡しもせず、一方向だけに目を向けている。その視線の先には、一人の老婆の姿。車イスに腰掛け、大きな窓から外の景色を眺めている。いつも同じ場所にいるのか、察しはついていたようだ。


「あそこ」


 軽く指差しで示す。


 八十二歳という多恵おばあさんは、ただぼんやりと、しかし興味深そうに、日が完全に落ちる直前の外の景色を眺めている。大稚によると、生まれ育った街をここから眺めるのが、大のお気に入りらしい。食事の時間以外は、一日中この場所で過ごす日もあるそうだ。


 ふと窓に映る自身の顔に気付くと、ハッと驚く、お茶目な姿を見せた。


 レクリエーションルーム内では、他にも十名ほどの人々がくつろいでいる。前方のテレビでニュース番組を見る人、スマホをいじる人、動物型ロボットをかわいがる人など、それぞれが自由気ままな時間を過ごされている。


 テレビから流れる音以外、会話する者はなく、比較的静か。


「多恵ばあちゃん」


 しかしその静けさは、目が覚めるほどの大きな声によって打ち消された。大稚の伸びのある声は、室内の隅々まで行き渡った。どうやら多恵おばあさんは耳が遠く、大声で呼ばないと聞こえないらしい。


 周囲の方々に迷惑ではないかとハラハラしたが、他の人たちはみな、まるで声など耳に入らなかったように落ち着き払われている。こういった施設ではスタッフも声が大きいため、心配はご無用のよう。


「ばあちゃんは補聴器が苦手で、つけていないんだよね」


 言い訳するように言う。


 窓際の老婆が、声に反応し、ゆっくりこちらを向く。初めは怪訝そうに首を傾げるも、間近まで歩み寄ると、孫の姿を確認して相好を崩す。


「あら大ちゃん、いらっしゃい。また北海道から、会いに来てくれたのね」


 顔には、たくさんのシワ。一つ一つの彫は深く、口の動きと連動するように動く。足腰は弱っているみたいだが、肌艶は良く、まだまだお元気そうだ。

 頭にはベージュのニット帽。フリース素材の膝掛けの上では、猫型ロボットが丸くなっている。


「今日は東京の家からだよ。東京に引っ越して来たって、先週の土曜日に来た時に言っただろ」

「あらそう、東京へ引っ越して来たの。それは良かったわ。それじゃあ今日は、東京にお泊りかしら。北海道へは、いつ戻るの」

「北海道へは、もう戻らないよ。これからはずっと、東京に住むんだから」

「まあ、東京に住むの」


 意外にも、まるで初めて耳にしたように目を丸める。とぼけておられるのか、すでに知っているハズなのに、やけに大袈裟な反応。


「それで大ちゃんは、東京へはいつ来たの」

「先週の土曜日だよ。今日は火曜日で、昨日から新しい中学校へ通い始めたんだ」


 そう言うと、両手を広げ、しっかり着こなした制服姿を披露する。まだ以前の制服のままだが、どういうワケか新しい制服でも披露するように振舞っている。もしかすると制服姿を見せること自体が、初めてなのだろうか。けれど何の説明も付け加えないのは、少し不自然。


 それによくよく考えれば、先週の土曜日と言えば、二人が初めて駅前で出会った日である。あの時はたしか、今と同じ制服を着ていたけれど…。


「まあ、素敵ねえ」


多恵おばあさんは孫の制服姿を見ると、感嘆の声をあげた。まるで仏様を拝むように、両手を胸の前で合わせる。

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