4 疑問

 しばらく安静にしていると、おデコの痛みは大分和らいだ。気持ちも落ち着く。

 けれどまだ、動きたい気分ではない。立ち上がったら、また眩暈が起きるかも知れない。


 今日の外部活動は五時からだけど、休ませてもらおう。ドタキャンになってしまうけど、頭を打ったと言えば、問題はないハズ。


 二、三十分は、過ぎただろうか。


 うっすら目を開け、少しだけ首を傾ける。そこには、楢野大稚の端正な横顔。ニキビ一つない、スベスベの肌。北国育ちらしく、あまり日焼けはしていない。


 半分成り行きで、今一緒にいる。


 大稚は始まったバスケットボール部の練習を、熱心に見学している。未経験と言ってはいたけど、真剣な眼差し。ただ、瞳はあまり動いていない様子。コート全体を、俯瞰している感じ。


 もう少し瞼を上げると、風になびく前髪を整える手が、目に入った。シャープな印象の、長い指。両足は前へ伸ばし、クロスさせている。芝がくすぐったいのか、時折太もも辺りを掻いている。


 じっと眺めていると、ふと初めて会った時の、不可解な言動が思い出された。


 そう言えば、あの時…。


「楢野君」


 バスケットコートへ向いていた目が、こちらを向く。


「小園さん、どうしたの。気分が悪いの」

「ううん、そうじゃなくて。もう平気よ」

「そう。よかった」

「…その、一つ、気になっていることがあるんだけど」

「気になっていること」


 初対面の際、ほんの一瞬だけ見せたあの奇妙な表情は、一体何だったのだろうか。まるで亡霊でも目にしたように、目を大きく見開き、唇を震わせていた。


「この間駅前で会った時、楢野君は私を見て、不自然に驚いた気がして…」


 大稚は、きょとんと目を丸める。


「…そう、だったかな。ちょっと、覚えていないけど。たぶん、倒れた自転車に驚いたんじゃないのかな」


 空を見上げ、記憶をたどる仕草。別段、動揺はない。どちらかと言うと、こちらの変な質問に戸惑っている様子。


 伸ばしていた膝を立てると、足に両腕を回し、コートへ目線を戻す。


「…そっか。いいの、気にしないで」


 やっぱりあれは、気のせいだったのだろうか。

 だけどあの時、目は自転車ではなく、真っ直ぐこちらへ向いていた気がしたけれど…。

 それに、その後の質問。


(あいりっていう名前は、どういう字を書くの)


 HP区内では、暗黙の了解で訊かれることはない質問なので、少し驚いた。何か、意図があるようにも思えた。


 だけど考えてみれば、大稚はHPプロジェクトがあまり浸透していない、北海道からの転校生。名前の書き方を教え合うのは、さほどタブーではないのかも知れない。


 そもそも、初対面で気付くハズは、ないだろうし…。


「あの…、小園さん。申し訳ないんだけど、僕そろそろ行かないと」

「へ」


 ふと顔の横に、スマホ画面を向けられる。見ると時刻は、すでに四時半を回っている。予定時間を少し超えている。


「やだ。私のせいで、遅くなってしまって、ゴメンなさい」

「いや、君のせいじゃないよ。バスケ部の見学に没頭して、時間を忘れてしまっただけだから。それじゃあ僕は行くけど、小園さんは落ち着くまで、ゆっくり休んでいってね」


 立ち上がると、お尻に付いた芝を、手で払い落す。シャツの乱れを整え、すぐさま斜面をくだり始める。


「あ、あの。待って」


 呼び止めると、顔だけをこちらへ向ける。


「どうかした」

「え…と」


 どうしよう。咄嗟に引き止めてしまったけど、次の言葉が出て来ない。そもそも、何で引き止めてしまったのか。

 何でもいいから、早く何か言わないと。


「小園さんは、もう少し休んだ方がいいよ。ゴメンね、付き合ってあげられなくて。それじゃあ、また今度。SNSで、連絡するよ」


 甘えん坊の子猫をなだめるように、やんわり微笑む。何だか、見透かされたようで恥ずかしい。


 別に、しつこく追及するつもりはない。勘違いだったのなら、それでいい。

 だけど、このまま別れるのは、どうにも気持ちがスッキリしない。


「あの…、私も帰るから、途中まで、楢野君と一緒に行かせてもらって、いいかな」

「え、帰るって…、もう歩けるの」


 意外だったのか、目をパチクリさせる。帰るという言葉より、一緒にという言葉の方に反応したのかも知れない。

 さすがに会ったばかりで一緒に帰るのは、大胆過ぎるだろうか。


「このくらいの痛み、もうどうってことないわ。それに楢野君が帰るなら、私もここに居続ける意味はないし」

「…そう。でも僕は、自転車なんだけど…」


 今度はまた違った、困惑の表情。幸い迷惑という感じではなく、単純に物理的な問題で困っている様子。


「あ、それじゃあ、家まで後ろに乗せて行ってあげるよ」

「後ろに…」


 申し出はありがたい。男子の自転車の後ろに乗せてもらうなんて、想像するとドキドキする。


 でも…。


「二人乗りは、ちょっと…」


 ルール違反はできない。


「あ、そうだね。ゴメン。それじゃあ、荷物だけカゴに入れて、僕も一緒に歩くよ」

「ううん。それは悪いわ。用があるのよね。私は一人で歩いて帰れるから、大丈夫。気にしないで。引き止めてしまって、ゴメンなさい」

「いいんだ。一緒に歩くよ。用って言っても、そんなに急ぐ必要もないことだから」

「でも…」


 気を使ってくれているのか、本当に時間は問題ないのか。申し訳ないような、嬉しいような。甘えてしまっていいものか、どうか。いろいろとわからない。


 だけど、この人ともう少し一緒にいたい。そんな気持ちが芽生えてしまった。


「一緒に帰ろう」

「それじゃあ、お言葉に甘えて…」


 素直で思いやりがあって、自然な気遣いができる人。あまり周囲にはいないタイプの人だ。この学校にいる男子はみな、からかいや嫌がらせをする、子供じみた連中ばかり。

 だから余計に、邪気のない瞳が、新鮮に映る。

 だから余計に、知りたくなる。


 大稚は、こちらがHPCだと知れば、どんな反応を示すだろう。

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