3 災難
バスケットコート内から突然、男子の叫び声がした。声の方へ顔を向けると直後、勢いをつけたバスケットボールがおデコに直撃。ゴールリングに当たったボールが跳ね返り、こちらへ飛んで来たようだった。まだ部活動の開始前だが、シュート練習をする部員がいたみたいだ。
「痛…」
反動で、背中が後ろへ倒れる。スマホが手から落ちる。天を仰いだのち、何とか体の向きを変え、両手でおデコを押さえる。気付けばダンゴムシのように、背中を丸めていた。痛みで、意識が朦朧とする。
なんという災難。
「すみません」
一人の男子部員が、側まで駆け寄って来る。見ると、一年生のよう。どうしたらいいのかわからない様子で、頭をペコペコさせている。少し怯えているようにも見える。背後では、他の部員がケラケラ笑っている。
腹が立つ。だけどこれは事故だし、上級生として心配はさせないようにしないと。
「私は、大丈夫よ」
何とか言葉を発する。
部員は安堵の表情を浮かべると、側に転がっていたボールを回収し、逃げるようにコート内へ戻って行く。
まあ、中一の男子だったら、そんなものだろう。
それよりも…。
「小園さん、大丈夫」
頭上で、大稚の声。被害者ではあるけど、何となく自分にも非があったみたいで、恥ずかしい。どん臭いヤツだと、思われただろうか。
顔を上げると、予期せず目の前に手。腰をかがめた大稚が、左手を前に差し出している。
…へ。
もう少し目線を上げると、真正面に顔。かなり近い。
「あ…」
目が合わさると、一気に恥ずかしさがこみ上げた。咄嗟に、顔を伏せる。
まさか、こんなことになるなんて…。
「…大丈夫、小園アイリさん」
二度目は、少し動揺の入り混じった声。変に意識されたのだから、無理もないだろう。
再び顔を上げると、大稚は目を合わさないよう、意図的に顔を横へ背けている。配慮か、うんざりしているのか。
だけど手だけは、ずっと前に出し続けたまま。
「とりあえず、またボールが飛んで来たら危ないから、もっと上へ行って休んだ方がいいんじゃないかな」
「う…うん」
優しい人…なんだな。
長い指。
間近で見ると、心臓がバクバクし始める。
どうしよう。
男子から親切にされるのは、慣れていない。他人の手を借りること自体、慣れていない。誰にも頼らず、できることは全部自分でする。これまではそれが、当たり前だったから。
むしろ自身が、他人の役に立たないといけない立場。
この手を取って、いいものかどうか…。いろんな意味で、迷う。
「…ゴメン。僕が体を張って守るべきだったのに、ちょっと他のことを考えていたから、気付くのが遅れてしまって」
「…そんな」
すごい人。知り合ったばかりの女子に、そんなことが言えるなんて。責任はないのに。ちょっと怖いくらい。
ひょっとすると、普段から守ってあげている女の子でもいるのだろうか。
手を地面につき、自力で立ち上がる。これ以上、迷惑は掛けられない。
しかし不運にも、立ち上がった瞬間眩暈がし、今度は派手に尻もちをつく。
「痛」
信じられない。これじゃあ誰がどう見ても、どん臭過ぎる。
「小園さん」
大稚の手が、背中に伸びる。何とか、後ろには倒れずに済む。
「大丈夫。しばらくは、動かない方がいいかもね。頭だし。でも、またボールが飛んで来たら危ないから、もう少し上の方へ」
「胸が、ドキドキする」
「…え」
あれ。
心の動揺は、想像以上に深刻のようである。一体全体、何を口走っているのか。
一瞬引きつった大稚の顔が、目の奥にくっきり焼き付く。無情にも、手はパッと背中から離れる。
「頭が…、ズキズキする」
「…ああ、災難…だったね」
何かがおかしい。きっとこれは、頭を打ったせいだろう。そうに決まっている。
とにかくもうこれ以上、失態は晒せない。
もう一度グッと、足に力を入れる。手を使って、何とか起立。平衡感覚を保ち、足元に置いてあったナイロンのスクールバッグを手に取る。肩に掛け、持ち手部分にぶら下がった黒猫のキーホルダーを整える。
落としたスマホだけは、大稚の手から受け取る。
「ありがとう」
「いや」
もう大丈夫。自分でできる。HPCなんだから、しっかりしないと。
と、思った、次の瞬間だった。
意図せず、目から涙が溢れ出る。
やだ、なんで…。
「小園さん…、頭、そんなに痛むの」
「いえ、そうじゃないんだけど。…て言うか、それもあるんだけど、何か突然で、ビックリしちゃって」
本当に、信じられない。泣くつもりなんて、なかったのに。
大稚は冷静な仕草でポケットに手を入れると、今度はハンカチを差し出した。なかなか準備がいい。
今回は躊躇せず、素直に受け取る。きちんとアイロンの掛かった、紺色のハンカチ。目元を拭うと、ほのかに柔軟剤のフローラルの香りがした。
「ゴメンなさい」
「いいよ。気にしないで。もう少し上まで、歩けそうかな」
「…うん、大丈夫だと思う」
背中を押してもらい、シバヤマの斜面をのぼる。結構、急勾配だ。七、八メートルほどのぼり、ようやく頂上にたどり着く。後ろのフェンスに手を掛け、もたれ掛かるように腰を下ろす。
ここまで来ればもう、ボールは飛んで来ないだろう。
大稚は一メートルほど間隔を開け、隣に腰を下ろした。バッグからペットボトルを取り出すと、一旦ハンカチを引き取って濡らし、おデコに充ててくれた。
本当に、面倒見がいい。
「いろいろと、ありがとう。楢野君とはまだ知り合ったばかりなのに、迷惑を掛けてしまって…」
「何言ってるの。僕たちもう、友達じゃん」
笑顔が眩しい。その親切な振る舞いに、胸が熱くなる。世の中には、こういう男子もいるんだな。
だけど、この人はまだ知らない。
ボールが当たったところは、少し熱を帯びている。心持ちコブもできている。意識は問題ないけど、しばらくは安静にした方がよさそうだ。
「それじゃあ私はちょっとだけ、休ませてもらうわね」
立てた膝に顔を伏せ、目を閉じる。
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