第6話 5.5cmの罰則
せっかくの週末だというのに、身も心もろくに休まらないという日がたまにある。
そんなときは、次の月曜を休んでしまえばいい。人間は、月曜日から早々に他人を叱りつけられるようには出来ていない。怠惰というものが糾弾されるのは決まって週末からだ。
しかし今日の私は、いつものように禄に眠れないまま自室で朝の光を出迎えたというのに、自然と定刻どおりに登校の準備を推し進めていた。
窓の外にはミンミンと鳴く蝉の声。
そして''ドーダちゃん''を起動させて、''秘密のロイン・アカウント''を確認。
どうせ大したことは書いていない。いつもの定型文が並んでいるだけだ。
本当に大切なことは、いつだって周りの人たちが教えてくれる。
着替えなどを済ませた後、最も苦手な''朝の行事''を遂行すべく移動する。
洗面所の前で目の下のクマを見つめる。
いつもの最低限度のメイクの上に、今日はお母さんから借りてきたベージュ系のコンシーラーをかましてみる。厄介払い。黒クマちゃんの退治だ。
結果──上手くいかなかった。
慣れないことはするもんじゃない。なんか余計に、細かいシワが目立つようになった気さえする。
クレンジングシートで拭き取ってから、溜め息と共にスクールバッグを取って、縁側の長い廊下を渡る。
「あーモネちゃーん。おはよーっす」
母屋の大広間。
巨大なスパコンの立ち並ぶ近未来的な景観のちょうど真ん中、台風の目のようにぽっかりと空いた空間……そこに置いてある卓袱台に突っ伏して寝ていたお母さん──剣取クミが、寝惚け眼を擦りながらそう言った。
私はお母さんの元へと歩み寄り、その肩をゆっくりと揉んだ。
そして広い壁一面に埋め込まれた巨大な''レーダー''に一瞥をくれる。
薄い銀色のメタリックな大型画面は、確かに私立
「……今日、''出る''んだね」
座布団の上に
「……うん。ごめんねえ、こんなアバウトにしか分からなくて。今日中、どっかのタイミングで''出る''からあ……」
「何体?」
「……多分、めちゃくちゃ。めちゃくちゃ数出る。ごめん」
私はお母さんをそっと抱きしめた。
座布団を枕にして横にさせる。
するとこの
「……モネ、無事でいてね。出かける前に、お爺ちゃんにも挨拶しときなさい」
「……うん」
私のお爺ちゃん──剣取シビト88歳は、自室で安らかに、長い長い
鼻から──いや、恐らくは人体のありとあらゆる穴からチューブを突っ込まれたかつての「十年に一度の名手」は、横に設置されたモニターの映し出すなだらかに継続するバイタル・サインの脈動と元に眠っていた。
カーテンは今日も閉め切ったままだ。
禿げ上がった頭。修験者としての激動の年輪が深く深く刻まれた、皺だらけの顔。
固く閉じられた瞼の奥の、酷く短い、チリチリになった睫毛。
私は、かつての剣取の英雄に向かって右の拳を突き出した。
「じゃあ、行ってきます」
◆◇◆◇
「……いや、それってさー。もう
平べったく引き伸ばされたような闇の向こう側で、姉貴が真面目そうに頷いている様子が見える。
ひんやりとした空気が鼻腔をくすぐる。私はくしゃみをした。
早くも寝静まった森の中、御神木の傍らで剣取の「女系」である姉妹の私たちは、何も言わずにしばらく見つめ合っていた。
私は姉貴──剣取アデルの側へと歩み寄った。
幹の周囲の下草を避けて歩を進めると、姉貴は私の肩に手を置いては微笑んだ。
「そうよ。あんたは古来より続いてきた剣取の伝統を、文字通り根源からぶっ壊した。
「……よく分かんないんだけど、私は魔法少女になれる素質があったんだね。嬉しいよ」
「そうよ」
「そうよ、じゃなくてさ」
「いつの時代も、愛の力は呪詛に勝るの。あんたは愛の
「……いよいよこの世の''均衡''は崩れ去って、
「……何度も何度も、繰り返し唱えてたんだってよ。宇宙祓い師として70年余り、日々血の滲むような
「……どうやら、とんでもない愛の
私はふと、「いくちゃんとひーちゃん」を頭に思い浮かべた。
それまで桁外れの生命を解放し続けていた御神木に、何層にも渡って斬り付けられた激甚
まったく。
全てが、マンガのような話だ。
「……なんだか信仰に走りたい気分だよ、お姉ちゃん」
私が薄闇の中で着古したジャージの裾を掴みながらそう言うと、姉貴は再び私の頭を上から撫で回した。
「……あくまで私見だけど、
心地よい夜風と、どこかフワフワした感覚。地に足が付いてないとは、まさにこのことをいうのだろう。
「──そうすればいつか、お爺ちゃんだってきっと
「うーん。ちょっとあまりに荒唐無稽だし……重いかも」
私は姉貴の腕に掴まりながら、その御神木を後にした。
今夜も剣取を象徴するその巨木は、我が家の広大な敷地を威風堂々と見下ろしていた。
◆◇◆◇
「剣取様。あなたの本日のそのお召し物についてなのですが、少々
十字架が見下ろし、聖母マリア像が微笑む正面
両脇に夏草が青々と生い茂る、色鮮やかなタイルが敷き詰められた広い一本道。
隅々まで華美な装飾の施された校門。
まるで18世紀ロココ様式の手鏡のような大仰なアシメントリー構造を
朝のホームルームへと急ぐ生徒たちが、私たちの周囲を次々と
今日も太陽は
そのあり余る程の熱放射エネルギーで、今もジリジリとこの地球を焼きつけている。
「──えーっと。すみません、どなたでしたっけ?」
欠伸を口の端で噛み殺しながら何とか声を発すると、片手にバインダーと何らかの端末を抱えたその女の子、というか女性、というか白色のリボンからして恐らく風紀委員会であろう3年生は、空いた方の右手で耳にかかっていた横髪を優雅にかき上げながら、ゆっくりと私に接近してきた。
「
まるで頭の周りにミルクティー・ブラウンの王冠を被っているかのような、複雑な編み込みのハーフアップ。こんなん毎日ようやるわ、って感じのやつ。前髪もスプレーでがっちり固めてるし。
そんでどえらい美人ですわ。切れ長のクールな目。シャープな口元。スッと通った鼻筋。べっぴんさんですわ。
絵に描いたようなお嬢さん。
そんな彼女が私に向けて今、この学園の校則──まさに十戒を説こうとしている。
「……『生徒会執行部』と『風紀委員会』って、よく混同されがちじゃないですか。加藤さんは、『生徒会執行部』なのに『風紀委員会』みたいな仕事をされてるんですか?」
加藤リラは、そのお上品な口元に微かな笑みを浮かべた。
清廉潔白であると同時に、それがどこか胡散臭くもあるような微笑み。
「──なんか他にも色々と言いたそうな顔ね、剣取さん。その解答としてはね。今現在、この学園は『特殊戒厳令下』にあって、各機関が臨時スケジュールの元に動いている関係で、今日は私たち執行部に風紀チェックの業務が委託されたの。ほら、これがその証明書よ」
加藤リラはバインダーに挟まれた何やらよく分からない物々しい書類をこちらへと提示してみせたが、当然のことながら私の脳内はそれどころではなかった。
「……『特殊戒厳令』?」
「そうよ。最近、この学園では何かしら不可解な現象が多くてね。私たちはそれを何らかの集団パニック的な催眠術、メンタリズムやマインド・トリックの悪用が水面下で行われていると考えているの。一部では''悪霊''、''怨霊''、''怪異''、''面妖''の類だと言う子もいるけどね。
なるほど。
いや、なるほどじゃない。完全にこちらの職務怠慢である。
「1日1ターン」などと宣っている場合ではなかった。隣町にマンガを買いに行ってる場合でもなかったのだ。
私は内心、猛省しながらも加藤先輩に笑いかけた。
あくまで、平静を装いながら。
「……『戒厳令』って、具体的に何するんです? まさか、ほんとに軍部が参入するとか?」
加藤先輩はその端正な顔立ちを一段と際立たせるような、なんだかわざとらしい微笑みを再び浮かべた。
「別に。なんか面白いかなって、皆そう言ってるだけよ。ただの''緊急事態感''。束の間の非日常ってなんかドキドキするじゃない? 不謹慎だけどね。まだ私たちは子供で、そんなきっちりした分別は付いてないからしょうがないんだろうけど」
まるで他人事だなと思うと同時に、私は安堵した。
まさか本当にこの国の軍事が参入する訳はないと思っていたが、もしもそれが実現するならば、
もしそんなことになってしまえば、もう──無茶苦茶に面倒臭いし、煩わしいから。
「……それで、私の今日の服装の
如何にもお嬢様のお召し物。
知性と品格を兼ね備えているらしい、シンプルなデザインの白ブラウスと茶色のスカートを装備した私は、その場で華麗に回ってみせた。
ちなみに夏服は薄いグレーのワンピース
すると加藤先輩は、その切れ長の冷ややかな目線を下げた。
まるで足元に新種のツチノコでも発見したかのような奇異の目が、ちょうど私の膝下へと向けられる。
「んー、ちょっと。まあ単刀直入に言ったら……''長すぎる''のよね、それ」
身長160cm、スカート丈およそ65cm──
中肉中背、何から何まで平均の極みのような自分の体躯を支えている、自分の膝頭へと私は目線を下ろした。
そして顔を上げ、次々と高速で
誰もが一様に、膝頭が隠れる程度のスカート丈を風に
その内、何人かと目が合った。
この厄介な上級生と同じ、奇異の目を向けながら──
「長すぎる……と」
「そうよ。剣取さん、長すぎるわ」
「……学生手帳に載っていた校則では確か、『膝頭にかかる程度』としか書かれていませんでしたが……」
「そう。でもあなたのそのスカートの長さは、膝頭を覆い隠し、完全に''超過''してしまっているわ。これは『膝頭にかかる程度』という文言から大きく逸脱した
「……ちょっと先程から何をおっしゃってるのかよく分からないんですけど、頑張って汲み取ってみると……その''膝頭を超過したスカート丈''というのも、どうやら''制服を着崩している''と見なされる……ということですか?」
「そうよ。あなたはこないだの健康診断……身体測定の結果を参照するに、身長は160.2cm。四肢の長さも極めて平均的。なので当学園の
「……いや、あの、正直……もう''気に入らない子に難癖付ける''なんてレベルをとうに通り越して、職権乱用のセクシャル・ハラスメントの連打にしか聞こえないんですけど」
すると加藤先輩はみたび、なんだか取り繕ったような微笑みをその端正な顔の上に浮かべた。
銀杏広場の奥の
毎週月曜日の定例会。
憂鬱な朝の始まりだ。
「でも、この学園において、
「……まあ単刀直入に言うと、嫌です。さっきから一体何を仰っているのか、まったくもって分からないので。それにあいつ一年帽の癖にスカートみじけーな。調子乗ってんなーで校舎裏に呼び出すとかは聞いたことありますけど、それの''逆''は今、初めて体験します。すいません、単刀直入に言うと無茶苦茶キショいです」
「……ちゃんとこの状況、分かってるじゃないの。今すぐ折って短くするか、
「……いや、いいです」
「何? 短くするのが恥ずかしいの? ほんのちょこっとだけよ。''5.5cm''だけ」
気が付けば周りを疾駆していた生徒たちは居なくなり、一本道には私たちだけが取り残された。
十字架の見下ろす本棟からはチャイムの音が聞こえる。
そして遠く向こうの
──いざや共に、声うち上げて──
──くしき御業、ほめ歌わまし──
──造りましし、
──神によりて、喜びあり──
──母の胸に、ありし時より──
──わが踏む道、さきわい給う──
──今も
──世の災い、除き給わん──
──迷いを去り、安きを与え──
──常に恵み、慰め給う──
──父なる神、御子、御霊に──
──
「……まあ、それもありますけど。これでも中学時代は、『鉄壁ガードの剣取モネ』で通ってたんで」
「そう。じゃあ当然、下も''対策済み''な訳よね。なら尚更、平気じゃない。''5.5cm''なんて……それにしても大丈夫なの? 今のこの時期じゃ蒸れて──」
「サラッサラの通気性抜群の特殊素材で出来たものを穿いているので大丈夫です。お気遣いありがとうございます。でも、やっぱり色々と残念です。加藤先輩。こんな朝っぱらから下級生をとっ捕まえては難癖を付けて、己の性的加虐欲を満たした挙げ句に、その下級生に遅刻まで強制させてしまうとは。まったく。この学園という閉鎖空間において、生徒会執行部という
「うーん。なんかまだ、勘違いしてるみたいね。私はただ、その''5.5cm''を──」
「分かってるよ。この両膝、そんで両腿の内側に
すると、次の瞬間──
鈍い衝撃音と共に、私たちは『虚空ノ手』の中へと飲み込まれた。
ビリビリとした振動が全身を突き抜ける。
眼前の景色が加藤リラと共に歪み出し、どこからか''嫌な空気''がガスのように噴き出す。
まったく。
今日は一体、ここから''何体''出てくるのだろうか?
『ッタクヨー。コチトラ上級生ダゼ? 人生ノ先輩ダゼ? 子宮カラ二年モ早クカラ顔出シテンダゼ? 素直ニ言ウコト聞ケネーノカヨコノ餓鬼? ナンナンダ? コノ国ニャ''年功序列''ッテモンガアンジャネーノカ?』
加藤リラという存在の輪郭線を、歪な形の光線を放つ電磁波と怨念のエクトプラズム──''白いモヤモヤ''が走り抜ける。
彼女は地面へとへたり込んだ。
あくまで''操作型''だ。
''憑依型''ではない。
私はスクールバッグの中から''ドーダちゃん''を取り出し、
「ゴールデンアイ」は必要ない。
中々の大物。
凄まじい''圧力''を感じる。
『ウキャキャ! 刈ッテ殺ル! オ前ノ両足ヲ刈ッテ殺ル! 刈ッテ殺ル!』
姿を現したのは巨大な、異形の蟹だった。
5メートルはある背丈。ドス黒いボディー。
私に向かって、その両方の
およそ1秒間に9.6音節を
「──On Beast Mode./こいつの/いずこの/傷を/射抜こう?/ Bitch,you growl/──」
「──獣の戯言/、ヘドロ、ヘタレ共/、今朝寝坊/せずにきたぜ轟音/響かす月桃/高校/、まさに血塗れのゲットー/──」
私はその斬撃を交わした。
亜空間の瘴気に歪曲した、色とりどりの歩道のタイルが四方八方に弾け飛ぶ。
そしてこの
バケモノ蟹の頭上高くへと舞い上がる。
その飛び出た両目の、ちょうど中間地点──
目掛けて天から''ドーダちゃん''を、脳天直下で突き刺した。
『愚ギャギャギャギャギャ! 痛エエアエエ痛エエエエエエヨオオオオオオオ!』
やがて蟹は全身から膨大な量の禍々しい灰色の泡泡を吹き出し、爆音と共に私は『虚空ノ手』を脱出──
「……
刀を収納し、すぐさま''ドーダちゃん''の点滅する
──最高。
もしかしてこの学校は、正真正銘のボーナス・ステージだったのか?
私は若干不謹慎にも浮かれ気分で、目の前に倒れていた加藤先輩を抱き起こす。
すると、遅れて駆け足でゲートを入ってきた──
◆◇◆◇
「お疲れさま、ありがとね。なんだか最近、おかしなことで倒れちゃう子が多いんだよ。スッと電池が切れたみたいに、その場にへたれ込んじゃうの。しばらく寝てれば治るんだけどね」
カーテンの向こう側。
加藤先輩をベッドに寝かしつけながら、保健室のおばさんがそう言ったのが聞こえた。
定良さんと私は長机の椅子に向き合って座ったまま、それを黙って眺めていた。
「じゃあ、先生ちょっと担任や保護者の方に連絡してくるから。あんたたちも授業行っちゃいなさいよ。剣取さんは、無理しないようにね」
「はーい」
そう返事をした途端、私は今になって偏頭痛や悪寒の症状を自覚し始めた。
まずいな……
いくらボーナス・ステージといっても、さっきみたいに
「──あの、剣取さん」
「あっ! ててててて定良さん!」
きっと朝から色んなことが、立て続けに起こったせいだ。
一緒にいる定良さんのことをすっかり忘れていた。
保険室で──
定良さんとふたりっきり──
今──
私は素っ頓狂な声を上げて椅子から転げ落ちそうにな──
「もう! 剣取さん! 真面目に聞いてよ!」
すると飛び出してきた定良さんの両腕が、空中にあった私の腰を正面から抱きかかえた。
柔らかい感触。
その上半身をギュッと押し付けられる──
そして私は、そのままの勢いで椅子の上へと連れ戻される。
目の前に、息を弾ませた定良さんの顔があった。
いつも通りの綺麗に整ったショートカット、額に浮かんだ汗を吸って、少しだけうねった前髪、首筋に漂う甘酸っぱい匂い。
私は自分の鼓動が、急速に高鳴ってゆくのを感じた。
でもいつもとは違う、なんだか質素な──いや、もしかしてこれ、すっぴんか?
私たちは数秒間見つめ合った後、定良さんは顔を真っ赤にして向かい側の席へと戻った。
その背中には、やはりあのケタケタと笑うエイリアンの顔がふたつ──
定良さんは数回の深呼吸を繰り返した後、意を決した様子で私に語りかけようとしていた。
「……いや、大丈夫ですよ。びっくりしました! 定良さんは、ノーメイクでもこんなに可愛い──」
「いや! そんなことどうでもよくて!」
定良さんは机をドンと叩いた。
私はビクっとして背筋を伸ばした。
「──はい! なんでしょうか?」
なんで私は、この人の前だといつもこうなってしまうのだろうか?
一瞬の間を置いて、机の向こう側にいる定良さんはゆっくりとその口を開いた。
「……私に、なんか取り憑いてるんでしょ? 数日前から。ねえ? 剣取さん。あなたは、何か''視える''んでしょ? ねえ……隠してたけど……実は私の
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