第2話
優斗は十年ぶりに帰ってきた我が家を歩き回ると、リビングにある椅子に腰かけた。
部屋のあちこちにあの日の残像が残っている。
母さんと一緒に過ごしたリビング。朝ごはんに出された、ちょっぴり焦げたハムエッグが懐かしい。
テレビは一台しかなくて、サッカー中継とドラマのどちらを視るかジャンケンしたっけ。
失ったはずなのに、思い出は意外と残っているものなんだ。
「優斗さん、お待たせしました」
「うおっ!」
振り返ればリッチがいた。夕闇に浮かび上がる頭蓋骨はホラーでしかない。
「リッチさん、近いです」
「ああ、すいません。こちらの人間の感覚と私の言動はどうもズレがあるんですよね」
異世界ではキスをしそうな距離感で顔を合わせるのが普通なのか……?
リッチはリビングのテーブルにある椅子に腰かけ、書類を広げた。優斗も着席し、目を通す。
町役場に行き、火葬許可証を発行していたらしい。本来なら親族が行うが、手続きを代行してくれたようだ。
これがないと明日火葬できない。礼を言い、書類を受け取る。
「失礼ですが、その姿で町役場に行ったんですか?」
「さすがにこのままでは驚かれるので、黒の手袋と覆面を装備して行ってきました」
いやそれ強盗じゃん。よく手続きできたな。町役場も慣れっこなんだろうか。
まあ、
「ところで、母は」
「英子さんビールを飲んで眠っています」
「母らしくて安心しました。……先ほどは言い合いを止めて下さり、ありがとうございます。言い争うつもりはなかったんですが、ダメですね」
英子と初めて大きなケンカをしたのは、高校一年のときだ。
優斗はお金が欲しかった。
ゲームの課金、新しい服や靴の購入、ゲーセンやカラオケ。やりたいことは数えきれない。
母に何度も相談したが「うちにそんなお金はない」と話し終えるのが常だった。
お金をもらえないなら、稼ぐのが早い。優斗は高校を休みがちになり、アルバイトに精を出した。
当然怒られた。
高校は卒業しなさい、勉強は大切、今頑張らないと将来困る……。
口酸っぱく言われるのが嫌で、うちを出て、先輩のつてで就職した。
優斗はお金と引き換えに、暮らしの厳しさを知った。
初めてのルームシェア。水道光熱費、食事代、ガソリン代、税金もある。
働かなければお金は入らないが、働けば遊ぶ時間がなくなる。
仕事への意欲が低下し、何度も転職をした。
情けなくて母に合わせる顔がない。苦しみの中にいたとき、運命の出会いがあった。と言っても女性ではない。おじさんだ。
とある老人ホームの外壁塗装へ行ったときに、声をかけられた。
ーーきみの手はとても優しいね。
おじさんは介護事業所の経営者。柔らかな物腰ですぐに仲良くなり、転職を決めた。
今は縁あって訪問入浴介護の仕事をしている。
生活が落ち着き、心に余裕ができると、ふと母に会いたくなった。
お金欲しさに実家から逃げ出したが、今なら過去の行いを素直に謝れるかもしれない。
二人で通った思い出の喫茶店へ誘ってみようか。
そう思っていた矢先、英子が亡くなった。
青天の霹靂だ。まさか母がいなくなるなんて。
もっと早く声をかければ良かった。実家に顔を出しておけば、謝っておけば……。
悩んでも時間は戻らないし、後悔は尽きない。
「優斗さんは、どうして英子さんと話さないんですか? ずーっとなにかを言いたそうな顔をしているのに、黙っているじゃないですか」
「えっ?」
「黄泉帰りサービスは明日の出棺前まで。それを過ぎれば英子さんは遺体へ戻り、なにも伝えられなくなります。そういう後悔を残さないために、このサービスはあるんです。今話さなければ、いつ話すんですか」
死んだら話はできない。しかし、リッチのおかげで猶予が与えられている。
胸のうちのもやもやも、最近あった嬉しい出来事も、近いうちに共有できなくなる。
もう二度と話せなくなるのに、ケンカ別れでいいのか?
伝えたいことは、伝えられるときに伝えなければ。
「……リッチさん、ありがとうございます。明日、母と話します」
「英子さんに同じ話をしたら、同じ答えでした。親子ですね。では、私はそろそろ斎場へ戻ります。また明日よろしくお願いします」
リッチがワープすると、室内は広く静かになった。
ゴミ袋が目立つ部屋の奥にある扉。優斗の私室だ。
ドアノブをひねれば、見知った空間が広がっていた。
高校の制服、色褪せたクッション、当時夢中だったアーティストのポスター。ぜんぶあの日のまま残っている。
「なんで……」
いっそ、片づけてくれていたら楽だったのに。
こんなふうに残されたら、英子にずっと心配をかけて、悩ませていたみたいで嫌じゃないか。
机に残された教科書とノート、その上に見慣れない長方形がある。
優斗の名前の通帳だ。
開けば、三百万円ほど貯めてあり、最近まで入金された記録があった。
「……なんだよ、俺、もう働いているから、貯金なんてしなくていいのに。金がないんじゃなかったのかよ。くっそ……」
視界が滲む。母が死んだと聞いたときは、心が冷えてわずかな涙さえでなかった。
どうしてこんなに今更泣けるのか、胸がぎゅっと苦しいのか、優斗には分からない。
ただ、母はずっと優斗を気にかけていたという事実が、心の柔らかな部分を刺激して、涙が止まらないのだった。
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