第38話 ハートフェルト
駆け出し商人のハートフェルトは、いつものように大街道から外れ、アズーリア村へ向かう脇道に馬車を進めていた。
「雨が降りそうだ。急がなきゃ」彼は馬車を一旦停め、手際よく荷台の帆布を締め直すと、再び馬車を走らせた。
この脇道は、荷馬車が一台通るのがやっとの狭い道で、雨が降るとすぐに小川のようになってしまう。もし足止めされれば、時間も資源も無駄になってしまう。
「もうすぐ村だ。なんとか持ってくれ」ハートフェルトは、深く被った帽子の下から、ベビーフェイスながらも髭を蓄えた顔をのぞかせ、空を見上げた。
ポケットの多い服から左手でメモを取り出し、「小麦、トウモロコシ、干し肉、豆、衣類、釘、金具、医薬品、灯油……」と、頼まれた品物とその町での仕入れ値、村での売値を頭の中で確認しながら、右手一本で巧みに馬を操った。
「売った金で、アズーリア村の特産物をできるだけ多く仕入れよう」特産物の種類と数量、仕入れ値、そして町での売値を頭の中で計算しながら、彼は馬車を進める。
商売には予測不可能なことが多いが、経験の浅い彼には、その対応がまだ難しい。赤字を出すことも少なくない。
「うーん、やっぱり数量を絞るべきか……でも、利益の最大化を考えると……」彼は暗算をしながら、御者台に貼り付けた黒板に左手で計算を書き込んだ。
「早く、師匠みたいにクイックカリキュレーションのスキルが欲しいなぁ」彼は、チョークで白く汚れた左手を見つめ、床にちらっと目をやりながら呟いた。
突然、雨が降り出し、次の瞬間には雷雨を伴ったにわか雨が襲ってきた。彼は仕方なく、いつもの洞窟で雨宿りをすることにした。
大粒の雨が地面を打つ音を聞きながら、彼はふと、商人としてのこれまでの道のりを思い返していた。
※
町の学校を卒業し、商人の見習いとしてダリオス商会という小さな商会に入った。
大商会に入るには通常コネが必要だが、彼は町の学校を主席で卒業しており、大商会からも注目されていた。
「お前、うちでいいのか?」
熊のように大きな体と強面の男が尋ねた。後に師匠となる商会長、ダリオスである。
迫力があり怖い印象を受ける彼だが、面接のために町外れにあるダリオス商会を訪れた私を、人懐っこい微笑みで迎え入れてくれた。
「はい」ハートフェルトは力強く応えた。
「なんなら、大商会への推薦状を書いてやるぞ」
ハートフェルトが差し出した学校の成績表を開くこともなく、彼の利発さと誠実さを短い面接で見抜いたダリオスは言った。
「いいえ、ここでぜひ働かせてください」
彼がこの商会に入ろうと決めたのは、ダリオスが行っている慈善事業に深く感銘を受けたからだ。
その活動は表立っていないが、噂は広がる。頭の良い者ほど、それに気づくものだ。
求人を出さないダリオス商会に、学校の講師や孤児院の院長、ギルドマスター、あらゆる知り合いを頼って、ようやく商会長との面接にこぎつけた。
「ただし、休みは少ないし、給料も少ない。仕事はきつい。お勧めはしないがな」
「それでも、お願いします」
実際の待遇は、彼の予想ほど悪くはなかった。商人見習いとして、店の清掃、販売業務、荷物の積み下ろし、事務仕事、資金調達、運搬補助、あらゆる仕事を一通りこなした。
ダリオスも彼を可愛がり、将来の独立のために経験を積ませ、各所との人間関係も築かせた。
4年が経ったある日、商会長室に呼び出された。中には、師匠と番頭である眼鏡をかけた優しげな男がいた。
「そろそろ、俺は引退しようと思う。店はたたむつもりだったが、番頭のケイオスに譲る。お前はどうする?残るか?」
ダリオスは先日、盗賊の商隊襲撃の際に大怪我を負ってしまった。それ以来、体調を崩しがちで、商会に顔を出すことも少なくなっていた。
「師匠、まだお若いじゃないですか。お体さえ治れば」
「俺の体だけが理由じゃない。お前も薄々気づいているだろう」
「町長や大商会からの嫌がらせですか?」
「そう思うのか?」
ダリオスは残念そうに瞳を閉じた。
「そうですね」
ハートフェルトは頷きながらも、ダリオスの問いに対する答えが的外れなのではないかと感じたが、他に答えが思い浮かばなかった。
「いずれ、お前にもわかる時が来る。この町を守るためには、団結が必要だ」この町を愛するダリオスの言葉は重く、そして悲しみを帯びていた。
「今まで、師匠が行ってきた活動はどうなるんですか?」納得のいかないハートフェルトは質問した。
「ケイオスには悪いが、暖簾代と株主配当は貰うよ。そこから出す。引退はもう決めたことだ」
「上手くやるよ。師匠の名は、表に立たせ続けることになるだろう」ケイオスの言葉には、自分の無力さと悔しさが滲んでいた。
ダリオス商会は非常に儲かっていたが、それは商売が上手だったからではなく、どちらかと言えば下手だった。しかし彼の誠実さと人情が評判を呼び、商会の人気を支えていた。
だが、利益のほとんどは孤児院の運営費、学校の講師代、冒険者ギルドの魔物対策費など、多くの慈善事業に消えていった。そのため、彼は一切贅沢をしなかった。
町長や大商会は、それを快く思わなかった。
「ダリオスは、町長の座を狙って人気稼ぎで金をばら撒いている」
「慈善事業といって、大商会より高く商品を売りつけて儲けている」
彼らの嫌がらせは、これまで誹謗中傷程度に留まっている。それだけに、ダリオスの怪我が意味するところがわからなかった。
「ハートフェルトには残ってほしい」兄弟子のケイオスは言った。
「すみません。一人でやってみたいです」彼は即答した。ケイオスは残念そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
兄とも慕うケイオスの願いではあったが、ハートフェルトは挑戦を選んだ。敵は、ダリオス。
師匠はにやりと微笑んだ。
「じゃあ、退職金だ」師匠は金貨の入った袋を机の上に置いた。ドラゴニア金貨10枚と多くの小銭が入っていた。
「少ないが、勘弁してくれ。その代わり、俺の荷馬車と馬を2頭譲る」
行商をする予定のハートフェルトにとって、賢く力のある馬と頑丈な馬車、これ以上の贈り物はなかった。
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