九 - 1 百鬼夜行

 黄金色の光が瞼を撫でた。


 目を開けると、赤く染まった空に大きな入道雲が浮かんでいた。

 雲の隙間からは柔らかな光が降り注ぎ、辺りを黄金色に照らしている。


 身を起こすと頭が酷く痛んだ。脳みそが捩じ切られるようだった。両腕が鈍く痛い。見れば、目玉はどれも充血し瞳孔が散大していて、瞳を激しく痙攣させ続けていた。

 腰に鋭い痛みが走る。深い切れ込みと共に新しい目玉が生まれていた。同じく脇腹と背中にも一つずつ。どれもこれまでのものより一回りも二回りも大きく、ぎょろぎょろと睨みが煩い。自分の体なのに、まるで異物が混じり込んだような違和感があった。


 周りには気を失った者たちが倒れていた。まだ誰一人として動かなかった。風の音さえしなかった。この世にただ独り残されてしまったような心地がした。


 女も穴から姿を消していた。代わりに白く輝く柱が入道雲へと真っ直ぐ伸びている。


 要一も見当たらなかった。あいつが着ていた襤褸は落ちているのだが、当の本人の姿がなかった。


 先に目が覚めたのか? それにしたってどこへ――


 衣を拾い上げようとして、肺から息が絞り出される。


 要一はそこにいた。


 その両足は腿の付け根に残されたコブ状の出っ張り以外完全に消滅していた。両腕も手首から先が無く、先端は丸まっていた。右目のあった場所には、代わりに目の形をした痣がある。


 もうまともに衣を着ることすらできていなかった。黒衣の下、短くなった四肢を身に寄せ、本当に小さく、蹲るようにして眠っていた。


 胸の奥が苦しくなった。


 要一はもうたったこれだけしか残されていないんだ。


「もういいよな……」


 形のわからない決意か諦めのようなものが胸の内で渦巻いていた。


「もう十分だ……。お前はよくやったよ。帰ろう。俺が連れて帰ってやるからよ」


 要一の体からそっと衣を剥がし、結んで袈裟懸けにする。小さな体を抱き帯の要領でそっと胸に抱え込んだ。


 背後で土を擦るような音がした。首切れ馬が震える足で身を起こそうとしていた。

 さっきの鳴動で首の肉がめくれ、頚椎が剥き出しになっていた。それが気になるのか、しきりに首を振る。そっと体を撫でてやると、首を擦りつけてきた。


「あ……あんちゃ……」


 穴のそばで良清が倒れていた。できものが顔中を覆い尽くしており、顔の輪郭すらも変えていた。それは今もなおあぶくのように増え続け、顔面を歪に膨れ上がらせていく。


 ざまあみやがれ。お前のせいで法一も――


 変容に崩れた姿に唾でも吐き落としてやりたかったが、なぜだかどうにも虚しい気がしてしてやめにした。


 法一が殺されたことにまでなんで俺が腹を立てているのか自分でもよく分からなかったが、そうした怒りの気持ちですら、静かにしぼんで消えていく。


 こいつも結局、何もできやしなかったんだよな。

 ある意味で言えば、俺や、要一や、法一と同じ。

 それに、俺たちの体に起きた変化は別にこいつのせいじゃない。


 いつからか、良清に憐れみの気持ちで向き合っていることに気づいた。少なくとも俺が怒るのも手を下すのも間違っている気がした。報いがあるとするならば、いずれ然るべきところで受けるだろう。漠然とそう思った。


 穴のそばからうめき声がした。知らぬ間に朱枝が身を起こし、苦悶の表情で頭を抑えている。その指の間から角がねじれ伸びていく。引っ張られるように栗毛の覆う皮膚が音を立てて縦一文字に裂けると、その隙間から乳白色の球のようなものが突き出てくる。

 伸びる角に引きずり出された頭蓋骨だった。

 耳を覆いたくなるような声を上げ、のたうち回る朱枝の姿に戦慄が走った。

 変容する姿もそうだが、いまにもその苦しみが飛び火してきそうに思えたからだ。

 俺は慌てて首切れ馬に飛び乗ると塚を下り降りた。


「――法一ぃ。そんな、どうして……」


 八華が身を起こし、法一の亡骸に泣きつくのが視界の端に残ったが、言葉を掛ける余裕などなかった。


 塚が鳴いた。


 目に見えない波動が体を貫いていく。背中がきりきりと痛み、皮膚が引き裂けるような感触があった。うめき声を上げる背で、ごろりと異物が蠢くのを感じる。身を捩ると、そうした異物感が体のあちこちにあることに気がつく。まだ打たれぬ波動を待ちわびているかのように、皮膚の下で目玉が眠っている。


 早くしねえと。


 少しでも早くこの場所を離れて、どこかに身を隠さねえと。早く帰って、そんで白瓜に会って、要一を村に帰してやらねえと。俺が俺でいられるうちに。だけど、そんなこと本当にやれるのか? 俺もすぐにこいつらみたいに……。


 塚にまとわりつく大百足の死骸の隙間、かつては六鶴一行だった者たちが、塚のあちこちでのたうつ姿があった。


 肥大したものは張り裂けんばかりに膨れ上がり、萎縮したものは燃えくずのように黒く縮れ果てる。捻れるものは千切れて果て、尖ったものは舌や眼球からも針が貫き出ている。腐るものは半ば液状と化し、干からびたものは動かず、穴の穿たれたものは虚空へと消え、燃えるもの輝くものは火炎や閃光に包まれた。鱗や羽毛に覆われるものたちはその身を化け物へと変じていく。


 この世のものとは思えぬものたちが、あちこちで身をよじり、苦しみ蠢いている。


 これが、もし――

 これが、もしこの世の全てで起きていたとしたら――


 意識が俺の身を残し、離れていこうとするのを感じる。


 逃げたって無駄だ。どこへ逃げたってもう――

 終わりだ。

 これでもう終わりなんだ。


 目だけがぎょろぎょろと救いを求めるようあちらこちらへと視線を飛ばした。その彼方、一つ転がる岩のような巨躯に目が留まる。思う間もなく馬がそちらへと駆けていく。

 熊雪。あいつだけが唯一の救いのように思えてならなかった。

 塚の中程、大百足の頭のそばに熊雪は倒れていた。体を叩き蹴飛ばして強引に起こす。


「何だ……わしはもうくたびれた……」


 寝ぼけ眼で地に付いたその腕は更に太く強靭になっていた。

 捻じくれた指先が大地を掴む。血管が苦しそうに脈打ち、全体がうっ血したようにどす黒く変色していた。もはや腕というより、樹齢数百年の大木を思わせた。

 熊雪は自分の腕を見て少しだけ目を見開いたが、さほど気にはしていない様子だった。


 俺はかいつまんで何が起きたか説明した。今すぐどうにかするべきだと、何をどうするかも分からぬまま訴える。そのすぐ脇で鼓膜を抉る奇声が響いた。


 熊雪の体の向こう、大百足がぎこちなく頭をもたげ始めていた。熊雪がのそりと振り返り、拳を構える。


 だが、大百足は襲いかかってくる様子もなく、頭をがくりと落とす。その表面で、無数の亡者が蠢いていた。大百足の顔面を形成する亡者の一部がどろりと溶け落ちる。地面にやわらかな体をなすりながら、混ぜ合わさって変容していく。気持ちよさそうに身をくねらせ、牙持ち、爪を携えた化け物へと、徐々に姿を変えていく。

 次々と落ちる肉の塊。数えきれないほどの肉の塊が、野槌や赤頭あかあたま深泥水虎みどろすいこのできそこないへと……化け物の群れへと変じていく。


「行け!」


 熊雪が怒号を発する。

 飛びかかる一体を殴り潰すその身に次々と化け物が襲いかかろうとする。


「行かんか馬鹿者!」


 化け物の一体がゆっくりと顔を向ける。そのがらんどうの目玉に何か喚き散らす俺の姿が映っていた。首切れ馬が飛び出した。そのまま脇目も振らず塚を下り、崩れゆく大百足の胴の合間を駆け抜けていく。

 腕が、いや全身の目玉がまばたきを繰り返す。

 その痺れのせいか、まるで全てが夢の中の出来事のようだった。それでも喉は悲鳴を上げ続け、首切れ馬は亡者に喰われるものたちを飛び越え我武者羅に走り続けた。


 大百足の尾を抜けると丘へと逃げていく者たちの姿が遠く見えた。その背を追い馬が駈ける。こんなところ、とっとと離れてしまいたかった。


 だが、丘を登ると何故か馬が足を止めた。


 遥か先、黒の荒野の向こう側に原色の森が広がるのが見えた。


 森が溶けていた。


 赤とも?とも紫ともつかない色が、溶け合い混じり合う。大きく揺らぐ木々が色を振り乱し、こちらに手招きするよう揺れている。


 怖気が立った。足を踏み入れてはならないのだと直感が告げていた。


 丘を越え逃げる者たちはそれに気づかぬ様子で一目散に駆けていく。


 視線を巡らす限り、地平のすべてを原色の森が埋めていた。


「こんなのどうすりゃ……」

「大太羅様に願うしかなかろう」

 振り返ると六鶴上人が立っていた。

「あんた、死んだんじゃ……」


 俺の問いかけには答えず、ただ息を漏らす。よく見れば頭の切断面は麸のようにあなぼこだらけで血が一滴も出ていなかった。


「逃げるも愚か。戦うもまた愚か」


 六鶴が指差す先を見る。化け物の海の中、表徳が火炎を吹き上げていた。溺れるような流れの中で、痩骨がゆるりと匕首で亡者の喉を裂き、松鉄に乗る毛羽が化け物を轢き潰す。


「ただ眼前で生物が燃ゆるを好む。死なぬ体でなお殺すことが、好みの化け物を捕らえるのが至上。哀れだと思わんかね。いずれも大太羅様の望む者ではない」


 塚の上では未だ朱枝が頭を抑え、千鳥足を踏む。

 その脇では法一の体に泣きつく八華。いつの間に目覚めたのか権髄が何事か語りかけるが、首を激しく振るばかりで耳を貸さない。八華に食らいつこうとする幾体もの化け物を権髄が次々倒していく。


 その背後、ゆっくりと身を起こすものがあった。


 良清だった。


「当然、あの男もな」


 良清は踊るように化け物を葬る権髄に歩み寄ると、鋭く大鎌を振るった。

 袈裟懸けに背中を斬られた権髄の頭部が、ぽんと胴を離れた。


 金切り声が上がった。

 目と口をこれ以上ないほど開いた八華が絶叫していた。

 胸元に権髄の生首を抱いていた。

 権髄の首は頭頂から針状の棒に貫かれていた。その一端は地面に刺さり、頭部を八華に預けるようもたれ掛かっていた。


「攻撃された瞬間に飛び出したか。ああして頭だけ抜け出すことができるそうだがね。胴に戻ることができなければ死んでしまうと言っていたから、どの道もう長くはないだろう」


 六鶴上人がまたひとつ息を吐いた。


「だが哀れよ。あのような延命になんの意味がある」


 絶叫する八華に躍りかかる化け物を朱枝が蹴たぐり頭をちぎり飛ばす。剥き出しの頭蓋骨を抑えたまま、襲いくる化け物をまとめて引き裂いたかと思うと、鼓膜を突き破るような絶叫を上げる。叫び声を上げながら高々と跳躍し、塚の中央から伸びる白の柱に飛びつくと、そのままよじ登り始めた。


「何をしてるんだ」

「やれやれ。やはりあれもとうとう駄目になってしまったようだ」


 六鶴がすいと頭上を指差した。

 示されるままに見上げると、塚の真上に白く巨大な塊が浮かんでいた。


 塚の頂上の穴から空へと伸びる柱は、大きく広がる白く巨大な雲のようなものへと繋がっていた。


 ――いや。入道雲に思えたそれは、よく見れば女の上半身を象っていた。


 何かすくい上げるかのように両手を差し出し、俯き麓を見下ろす女――


 表面を絶え間なく液体が伝い、まるで薄絹が張り付いたように見える顔には微笑みが湛えられていた。


「大太羅――」


「あの男はまだ始末する気でいるのだよ。ま、不可能だと思うがね」


 大太羅の顔の表面に波紋が走った。

 内側から漏れ出す黄金色の光が一層白を浮かび上がらせる。

 それは板戸や壁の隙間から漏れ入る朝日によく似ていた。

 暗闇を散らし、安堵をもたらす夜明けの輝きだった。


 ゾッとするほど神々しかった。


「大太羅様のお考えはわしにもわからぬ。だが、このままでは、じきにこの世は終わりを迎えることは間違いないだろう」


 六鶴上人が散歩でもするような歩調で歩き始めた。


「おい、どこ行くんだ」


「足元の愚か者どもを足止めにして、もう一度大太羅様に願いをかける。それが唯一残された道だ。君達も付いて来てもらおう。どうせ逃げられぬのだから問題なかろう」


 かちんと来る物言いだが、確かに他に出来ることもない。仕方なく従う事にした。

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