八 - 2 雷鳴

 地面が緩やかに傾斜を始める。おぶった要一の汗が首筋に垂れた。


 随分続く上り坂の果てには、真一文字に尾根が走っている。先を行く熊雪の背中は大分小さくなっていた。どこかでまた雷が鳴った。


 そう言えば、この辺りに差し掛かってからえらく遠雷が響くな。


 そんなことを思いながら、要一を背負い直し、地面を見下ろし歩く。

 からりと乾いた黒の斜面が、ふいに陰った。おや、と思った途端、首に冷たいものが落ちる。


 やれ、ついに一雨来たか、と見上げると、頭の上に黒く膨らむものがあった


 あれだけ晴れ渡っていた空を、けばけばした黒雲が覆い尽くしていた。空を覆う雲の表面は激しく波打ち渦を巻き、時折小さな稲光が走る。そこには金色の三つ目が輝いていた。


 ようやくそれが雷雲なんかじゃないと気づく。黒雲だと錯覚していたその塊は、ほんの目の前、傘でも広げたように頭上に被さった漆黒の毛皮だった。雷鳴によく似た唸り声。三つの目玉の間からは山犬に似た口吻が突き出している。天が裂けたような巨大な口。群青の口内に乱れ生える鋭い牙。そして、時折毛皮の内から突き出される、稲妻によく似た触手……。


 ――雷獣を知っておるか? ぐるぐる喉を鳴らして、輝くぎざぎざの触手を伸ばす……。


 熊雪の声が頭に響く。両腕が強く痺れていた。

 要一を腹側に抱え直すと踵を返して坂を下った。頭上から雷鳴によく似た唸り声が轟いた。後頭部を抉る咆哮は、もうずっとそばまで迫っていた。振り返る余裕なんかなかった。四肢がちぎれるくらいの全速力でとにかく走った。


 突然、白く閃光が走ったかと思うと、行く手に輝く稲妻が突き刺さった。幾重にも屈曲を繰り返す雷獣の触手だ。転げるように脇を抜ける。


 ――その日を境にわしの半身は見ての通りだ。


 黒く縮れた半身が頭をよぎる。


 畜生、あんなになってたまるかよ。


 雷鳴と閃光。腕の目玉たちが激しくまばたきをする。まばたきした方向から逃れるように身を捩ると、すぐ脇に触手が突き立つ。間髪入れずに知らせる目玉に身を翻し、触手の隙間を走り抜ける。心臓が強く痛んだ。喉が焼けるようだった。弄ぶように稲妻が行く手を阻む。


 この野郎、いつでも殺せるくせに遊んでやがるんだ。


 そう思った途端、つまずいてすっ転んだ。要一を庇った体勢で麓まで転がり落ちる。頭上から嘲るように唸り声が轟いた。身を起こそうとすると、一際強い光と共に周囲を取り囲むようにして稲妻が突き刺さった。


 空を覆う漆黒の帳が青く引き裂ける。


 巨大な口がごろごろと音を立てて唾液を飲み込んだ。


 金色の目玉には嗜虐の光が湛えられていた。


 なぶり殺しにする気だ。


 少しずつ枯れ枝のように搾り取られる四肢が頭に浮かんだ。体は固く動かなくなっていくのに、痛みだけがじゅくじゅくと内側を流れていくことすら想像できた。最後の一滴まで奴にすすり取られた時、水気の抜けきった目玉は何を見るだろう。


 ぞっとするような死の実感が体の動きを止めた。


 体から逃げていくように涙が溢れてきた。あの巨大な目玉に一掴みでも砂をひっかけてやれればまだ逃げられるのかもしれないが、地面を撫でる手のひらには掴めるほどの砂すら触れない。いいや、たとえ砂を掴めたところで、試すまでもなく奴のほうが早いだろう。


 ぐるぐると雷鳴が轟き、波打つ毛皮が青白く光る。左腕が強く痺れた。咄嗟に逆方向に転げると、今いた所に鋭く稲妻が突き立った。


 奥歯ががちがちと音を立てた。


 どうにかしないと――。


 考えが空転する中、雷獣の唸りに紛れ、どこかで蹄の音がした。


 聞き覚えのある音だった。


 首を巡らすと朱色の首切れ馬がすぐそこまで駆けてきていた。背には、だんびらを滅茶苦茶に振り回し、大声で喚き散らす庚申の姿があった。


「るあっ」


 大振りの一撃が触手の一つを叩き切る。ぎゃん、と山犬に似た悲鳴。雷獣が崩れ落ちるのをくぐり抜け、その隙に拾い上げられるようにして庚申の前に跨る。


「すまん、助かった!」


 背後で庚申がひうひう息を吹き、馬を駆る。


「これで終いだ! これで終いだからな! 嗚呼、畜生! なんで来ちまったんだ、畜生! おめえらをどっかに置いたら、今度こそ俺は帰るからな!」


 興奮と恐怖の臭いにまみれた庚申はただ、帰るんだ、とうわ言のように繰り返す。

 背中を引き裂く轟音がそれを遮った。凄まじい鳴動に耳を塞ぐ。渦巻く怒りを直接浴びせかけられたようだった。


「畜生め! 近寄るんじゃねえ、この野郎!」


 庚申はだんびらを振り回しながら進路を蛇行させ始めた。俺は身を丸め、要一を体の下に隠す。


「あっ」背後で息の漏れるような音がした。


 くぐもった声に続いて、地面でどたりと音がした。


「――待て! 置いて行くんじゃねえ! 俺はまだ死んじゃいねえ」


 地面に倒れた庚申が手を伸ばす。背には輝く触手が突き刺さっていた。


「帰るんだ、俺はもう帰るんだよお」


 三つ目の黒雲に引き寄せられながら庚申が叫ぶ。火で炙られた紙くずのように体が見る間に黒く萎れていく。雷獣ががばりと口を開いた。顔皮がめくれ上がるようにして顔のすべてがが口になり、真っ青な歯肉と乱ぐい歯が剥き出される。


 すぐさま手綱を取って丘の上を目指して駆け上がった。助けに戻る余裕などなかった。絶望に満ちた絶叫が背に突き刺さる。しかしそれもすぐに萎れ果て、骨の砕ける音に飲まれていった。


「熊雪! 熊雪!」丘の斜面に視線を泳がせ巨躯を探しながら必死で叫んだ。


 雷獣が吠える。触手が放つ閃光は怒気を孕んでいた。明滅する黒雲が雷鳴と共に地を蹴り駆け上がってくる。その度、雷獣は明滅するように一瞬で位置を変え、見る間に迫ってくる。


 嵐を振り切るよう馬を駆る。首切れ馬は俺の意志を理解したのか全力で疾走する。それでも追いつかれるのは時間の問題だった。


「熊雪!」再び顔を上げると、青白く明滅する黒が視界を覆った。


 進路を塞ぐように触手が地団駄を踏み、首切れ馬が足を止める。ぐるぐると喉を鳴らし、頭上一杯にがばりと開く青黒い口腔。身を伏せる俺の背に牙の先端が触れた。

 その瞬間、首切れ馬が飛び出した。背の肉が引き裂け呻き声が漏れる。黒い天幕を抜けるとすぐ足元を追って触手が突き刺さった。


「熊雪! 頼む、助けてくれ!」


 叫び終わらない内に、坂の上から大きな影が頭上を越えた。


 背後で地響きと共に野太い悲鳴が響き、雷鳴が遠のいた。


「どうだ。この拳、忘れたとは言わせんぞ」


 振り返ると、ほんの数間離れたところに熊雪が立っていた。少し距離を取って雷獣が対峙している。にやにやと涎を垂らしながらも、威嚇するように喉を鳴らす。


「いまの内に逃げろ。守ってやる余裕はない」


 背中越しに熊雪が言った。

 言われるまでもなく駆け出した。もうあんな化け物に追われることなどごめんだった。


 坂を急ぎ登る中、俺にしがみつく要一が俺の腹に何度も頭を叩きつけてくる。


「うるせえ! 生きてるだけでありがたいと思いやがれ! いいか、死なずに塚が見たけりゃあ、誰を見捨てようが文句を言うんじゃねえ。俺はこうやって生きてきたんだ、文句があったら言ってみろ!」


 そこまで声に出して、頭に庚申の顔が浮かんだ。


 仲間を裏切って、いの一番に逃げるあいつが。


 他の人間を囮に使ってでも、自分だけは生き延びようとするあいつが。


 詭弁を弄して、俺まで使い捨てようとしたあいつの顔が。


 要一が真っ赤にした目で俺を見上げる。


 ああ、そうかよ。俺が同じか、あんな野郎と、おんなじだってのか。


 奴の断末魔の絶叫が脳裏を過る。燃えカスみたいにくしゃくしゃの、惨めに萎びた体まで。



 ――いいや、畜生。一緒じゃねえ。全然おんなじなんかじゃねえだろうが。


 あんた、最後の最後はホントによ、ホントに助けにきてくれたんだもんな。



 首切れ馬が足を止めた。


「気が変わった。戻るぞ」


 首切れ馬が走り出す。その暫く先ではまだ熊雪と雷獣が睨み合っていた。


「要一、お前も考えろ。俺たちに何ができる」

 要一が顔を上げ、頷いた。


「行くぞ」首切れ馬は止まらない。「俺たちでやるんだ。いいな」




「――馬鹿者が。なぜ戻った」


 駆け戻るなり熊雪が怒鳴った。

 ちらと俺たちに目線を切った瞬間、雷獣がふわりと飛び上がると体を俺たちの頭上に大きく広げた。一体どこからと思うほどおびただしい毛皮が湧き出し、分厚い層を作り出す。本体であろう山犬の口腔はその黒雲の中に消えてしまう。


 ゆらゆらと漂う暗雲の滞空を維持するためにか、時折、触手の一撃が地面を打った。瞬く間の雷撃、黒い残像が目に焼き付くなか、突然腕に痺れが走った。

 首切れ馬が飛び退くと同時、頭上から青黒い口腔が食らいつく。

 かろうじてかわした直後には、雷獣のあぎとは姿を消している。

 頭上から空気を引き裂くような咆哮が轟いた。


「こりゃあ、良くて相打ちだな」熊雪が呟く。「一か八か、喰らいかかってきた瞬間に拳を合わせるしかないだろう。その隙にお前たちは逃げろ」

「いいや、それじゃ駄目だ。奴の方が速い。拳を振るった時には頭から喰われちまってる」


 鼓膜にびりびりと雷鳴が響いた。黒雲が徐々に周囲を覆いつつある。


「今更もう逃げられやしない。俺たちが手を貸してやる。今ここで奴を始末しよう」

 驚いた顔で熊雪が顔を向ける。

「こいつも同じ考えだ」要一が静かに頷いた。

「反対したいところだが、もうお前の言う通りかもしれん。策を言え。あるならな」

「いいか、よく聞け。幸いなことに、俺の〈変異〉がありゃあ、奴が攻撃してくる方位と瞬間だけはわかる。あとは――」

「あとは?」

「避けるんだ」

「――何だと?」

「避けて攻撃の機会を待つんだよ!」


 左腕に痛みにも近い痺れが走った。ほんの一間先に触手が突き立つ。ふわりと泳ぐ黒い雲から金色の目玉が覗くのを見るが、一瞬の内に姿を消した。


「ああして現れては消えるというのに攻撃の機会も何もないだろう」

「うるせえ! いいから俺が合図したらどっちでもいいからとにかく飛び退け!」


 がなりつけながら要一の荷袋を漁り、松ぼっくりを取り出した。大ぶりで、ずしりと重みがある。その先端に松脂まつやにを塗りたくり、火打ち石を構える要一に火を点けさせる。焚き付けに使うやにだ。小さな火花でもすぐに着火する。


「早くしろ、早く――」雷鳴が迫っていた。

「さっきから何をしておる」

「黙って合図に専念しろ! 隙ができたらぶちかます準備だけはしておけよ!」


 松脂に火が灯った。振って火を大きくしていると左腕に痛みが走る。


「――跳べ!」


 跳ねる馬の背から、まばたきした目玉の方向に燃え上がる松ぼっくりを投げつける。


 鼓膜が破れんばかりの絶叫が響いた。


 喰らいかかる顔面、その金色の瞳のひとつに火の玉が命中したのだ。

 黒雲から雷獣の顔面が垂れ落ちる。その巨大な顔面めがけて熊雪が跳躍するが、雷獣も即座、触手で地面を乱打し再び宙に浮かび上がる。


「しまった! 逃げられたか」

「大丈夫だ。次で仕留められる」

「説明の下手くそな奴め。もっと言いようがあったろう」


 両手の松ぼっくりに火を点けさせ、意識を集中させる。


「打てるのは一度に二発っきりか。それを外せばおしまいだぞ」

「うるせえ。俺は必ず当てる。奴の目玉が一つ潰れたのを見ただろ。あれじゃかわすのにも相当難儀するだろうぜ」


 熊雪が呆れた声を出すそばから、左腕に痺れが走った。


「――跳べ!」


 熊雪の立っていた場所にするどく触手が突き刺さるも、松ぼっくりを放つ中空に雷獣の姿は無い。炎は分厚い黒雲に弾き返されてしまう。

 馬が着地するのと同時、右手が痺れた。


「跳べっ」


 二発目の火球もまた空を切る。腕に痛み。


「跳べえっ!」


 三度馬が跳ねる――。


 跳躍の頂点、その真上に奴はいた。広げた毛皮からぬるりと口腔を突き出して。乱れ並ぶ牙を軋ませながら、空手になった餌が飛び込むのを待ち構えていた。


 その勝ち誇った金色の目玉目掛け、手の中の火打ち石を投げつけた。二つの石は鋭く飛び、油断していた目玉の一つに食い込んだ。


 雷獣は悲鳴を上げて身をひねり、出鱈目な方向に幾つも触手を伸ばしながら地面に落ちた。宙に広げた黒い毛が地面へと舞い落ち、頭部の周りに引き寄せられる。それでも尚、転げた傘のように体を広げ触手を突き出す。


 そこへ黒の塊が稲妻の如く落下した。

 岩のような拳が雷獣の頭部を叩き潰していた。


 後にはおびただしい量の毛皮の塊だけが残された。

 所々からだらしなく垂れた触手からも、毛皮からも、あのおぞましい輝きが消えていく。


「ようやっと半身の仇が討てたわい」


 豪快な笑い声。要一がほっと息を漏らした。


「ところで鳥吾よ」熊雪が笑う。「酒をたらふくだったな。忘れるなよ」

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