八 - 1 庚申と陰摩羅鬼
頭が押しつぶされるように痛かった。瞼の中が蒸し焼きにされている。たまらず目を開くと、南中に浮かぶ太陽が俺達を焼き殺そうとしていた。憎らしいほど晴れているのにどこか遠くで雷が鳴っていた。
身を起こすだけで視界が歪んだ。這うようにしか動けない。黒い地べたの上でのたくるように四つん這いになりゲロを吐いた。
また白瓜の夢を見ていた気がする。あいつがいまどうしているか考えると胸の奥が突き刺されるようだった。
やっぱりあの日、きちんと顔を見ておいてよかった。
山程の銭を渡してやれてよかった。
そうしていなければ、不安はもっと大きく膨らんでいただろう。もしかしたら、胸の痛みに負けて引き返していたかもしれない。要一に少しは感謝してやらないとな。
まだ焦点の合わない視界の中で、乾いた地面がゆるやかな起伏を描いていた。
森を抜けた先はいかにも、この世の果てです、って具合にただただ浅黒い荒野が遥か先まで続いていた。波打つ水面のような紋様を残して固まった黒の地べた。ぽつりぽつりと黒く四角い岩石が直立するのが見えるが、それ以外には草一本見当たらない。その黒の中に、ぽつんと小さな体が倒れている。痛む頭を押さえつつ、足を引きずり向かう。
うつ伏せに倒れる要一の姿を間近に捉えた時、かけるべき言葉を失った。
要一の右膝から先が消えていた。黒い大地にその影だけが残されている。
要一はうつ伏せたまま、なにかに耐えるように身を震わせていた。
だが、俺がもう一歩近づこうとすると、ぴたりと震えが止まった。
俺が言葉を見つけるより先に、要一が、ふらふらと立ち上がろうとし始める。
何でもない風を装って。一本だけ残された足でどうにか均衡を取ろうとする。
まるで、片足をなくしたことなんか、気にしていないとでもいうかのように。
要一がちらとこちらに目をやり、一歩前に飛び跳ねた。
体勢を崩して倒れ込む要一に歩み寄ろうとすると、またよろよろと立ち上がり、真っ赤に濡らした目で振り返って、何か問題でもあったのか、早く進もう、って調子で前を指差す。俺が口を開きかけるとまた一歩踏み出し、今度は尻もちをつく。
「分かった」まだ立とうとする背に堪らず声を掛けた。「もう分かったからよ」
それでも立ち上がり、少しでも前に進もうとする。そんなのは無茶だってことは自分でも分かっているだろうに、やめようとしない。
地面から体を持ち上げようとする腕が震えていた。喉の奥から絞り出すように呻き声を漏らし、涙の粒をこぼす。年格好に相応しい、だからこそ似つかわしくない姿だった。
「びいびい泣くんじゃねえよ、うるせえなあ。なくなっちまったもんは仕方ねえだろ」
歩み寄る俺に、要一が怯えた目を向けた。
「もう、すぐそこじゃねえか――ほら」
要一の目の前で背中を向けて屈み込むと、要一がぽかんと口を開けた。
「さっさと乗れよ」
要一がしっかりと頷いた。それから少しだけ時間をかけて体を起こし、砂を払ってから、俺の背に体を預けた。
「これで問題ねえだろ。いつまでもぐずぐずやってたら置いていくからな」
背中で鼻を啜る音。それに紛れて、また頷く気配があった。
林から続く足栄の足跡をたどる。それは多くの足跡からなる別の流れに合流していた。「もうじきだぞ」要一を揺すってやる。足跡の群れに自分のものを加えていく。
暫く先で黒い大地が丘のように盛り上がっているのが見えた。
あれが塚だろうか。
――いや、それにしては人の姿がない。どちらにせよ、あそこまで行けば何か見えるだろう。足跡もそちらへ向かっていた。
丘の少し手前には、黒い塊が二つと白く大きな岩があった。その傍らには、ふらふらと歩き回る幾つかの人影がある。その内の一人が岩の足元、地べたに座り込んでもたれかかっている。岩の陰で大人しく佇む首切れ馬を見てようやく、それが庚申だと気づいた。
要一が肩を強く掴んだ。悔しいかな、俺は知った顔を見て少しだけ安堵していた。
岩の傍らでうろつく者たちは何をしているのか、黒い地面を見ては時折かがみ込み、何かを拾い上げて懐に入れている。その傍を気にする目つきに俺と同じにおいを感じた。
庚申は俺達が近づいても俯いたままで顔を上げようとしなかった。度重なる変容のせいか、頭の指が細長く伸び、先端は渦を巻いていた。
「――ああちょっと、そこのあんた」
庚申が顔を上げた。弱々しい声だった。
顔の中央に空いた一つきりの眼窩からは、無数の小さな目玉が虫の卵のように溢れ出ていた。俺だと気づくと庚申は眉間に皺を寄せ、なんだてめえか、と呟いた。
「一人なのか。他の連中はどうした」
「うるせえ知るか。俺はもう降りたんだよ」
重く溜息をついてうなだれる。たった数日ぶりなのにすっかり年老いて見えた。
「この目ン玉じゃどうにもならねえんだよ。右も左も空も地べたも全部一緒くたに繋がって見えやがる。自分がどこに立ってるのかすら分からねえ。こいつがいなけりゃ、帰ることすら諦めてたろうよ」
庚申は首切れ馬を顎で差し、自嘲気味に笑った。
「お前こそなんでこんなところにいやがる。そんな餓鬼連れてきたってなんにもならねえんだろ。一体幾らで雇われたんだ」
骨銭六枚の入った巾着を振って見せると、庚申がぽかんと口を開いた。
「おいおいおい。何いってんだあ、この馬鹿野郎。昔、教えてやったよなあ。命が一番、銭子は二番ってよお。金にもならねえことに命かけやがって。お前と比べりゃあ、金のためにくたばったそこの連中の方がまだマシってもんだ」
庚申が黒い塊に目をやった。もたれかかっている岩と同じくらいの大きさだった。
羽毛に覆われたその塊からは酷く焦げ臭いにおいがした。よくみると、にゅっと突き出た棒切れの先には鋭い鉤爪が残っていた。
だが、それ以外に死体らしきものは見当たらない。
「六鶴に付こうってのが四、五十人。大太羅をぶっ殺そうってのも六鶴が金でまとめて、もう五十人程か。骨喰を出たときにゃそんくらいはいたんだがな、随分やられて、ここに辿り着いた時には半分くらいになっちまってた。中にはもう降りたいって奴らもいたんだが、前金もねえのにおさらばするわけにゃいかねえだろ。そうして帰るに帰れなくて仕方なく付いてくる奴らが日に日に増えてな。ついに結託して暴れだしたのさ。坊主を殺して金を山分けしようってな」
説明するのも大儀だと言わんばかりに庚申が息を吐く。
下手に合流しなくてよかったかもしれない。話を聞きながら思った。
あらくれどもの様子を聞くに、俺達の居場所なんてなかったようだ。一行に加わっても守ってはもらえなかったろうし、むしろ苛立ちの矛先を向けられていた可能性すらある。
「立案者は素人だろうな。報酬を全額、裸で持ってくる馬鹿がいるかよ」
「それで、殺し合いになったのか」
「まあな。もっと一方的なもんだったがよ」
庚申はにやりと笑い、嬉しげに語り始める。
「大太羅をぶっ殺そうって奴らの内に酒ばかり飲んで何もしねえ
そこへそいつらが現れたんだ。庚申が黒い塊に顔を向ける。
「巨大な鳥の化け物が、それも二羽。――六鶴は
よく見れば黒い地べたは濃淡のまだらになっていた。その中に、手や足らしき影を見つけ、背筋がスッと冷たくなった。辺りの連中が何を漁っているのかようやく理解した。
「お前の連れで牛鬼に乗ってたチビがいたろう。あいつもそん時にくたばった」
一瞬、頭が白く潰れる。
「まさか王禿じゃないよな。嘘だろう」
「嘘なもんかよ。牛鬼が鳥公に押さえつけられて、頭っから火炎をぶっかけられそうになってよ。あのチビ、何を思ったのか鳥公のくちばしに食らいつきやがったんだ。口先を噛み潰された鳥公が目ン玉白黒させながら、それでも火炎を吐き出そうと躍起になってた。逃げ場を失った炎が口の端やら目ン玉から吹き出してきてな。遂には首から先が真っ白に輝いたと思ったら、爆発したんだ。あいつはそれをモロに受けて消し飛んだよ」
言葉が出なかった。
何故だか王禿は死なないものだと思い込んでいた。
「鳥公の方もそのまんま、てめえの炎で焼けて死んだ。ほら、丁度そいつだ」
岩のそばで横たわる炭くずを顎で差す。
――その足元で、小さな何かが日を白く照り返していた。
骨製の鈴だった。
拾い上げ、煤を払い落とすと、薄く炎の意匠が現れた。
塵芥の荒野で、そして骨喰の広場で王禿が助けにきた時のことが蘇ってくる。
胸が焼けるように熱かった。首に回される腕の力が強くなる。
「あん時は笑ったなあ。下痢と屁が同時に炸裂したような音がしてよお」
「……松鉄はどうした」
「ああん? 牛鬼の方か? あれは
野槌を連れてた奴らのことだ。
ふざけやがって。松鉄は人間なんだぞ。
「ま、弱くて引き際を誤るやつから死んでいくって事だな。それで、もう一方の鳥公はつええ連中が始末をつけたみたいだ。俺はとんずらこいてたから詳しくは知らねえけどよ」
命が一番だからな。庚申が小さく笑った。
「大方、
庚申が息を吐く。
「そんで一通り済んだあと、坊主が一つ提案した。死んだ奴に払うはずだった分は、終わった時に生き残り全員で山分けって話になった。数えるほどになっちまった連中の士気を高めたかったんだろうな。雑魚は殆ど殺されちまって文句も出なかった。こりゃ運が向いてきやがったと思ったところで塚が鳴きやがってこのざまだ」
ついてねえよな、と庚申が俯いた。
「お前はどっちについてたんだ」
「そりゃ最後に勝ったほうよ。てめえの色さえ決めずにいれば、どっちに転んでも負けねえ。銭の出どころが変わるだけだ。でなきゃ、こんなクソ喰らえな旅に付き合うかよ」
痰唾を吐き捨て庚申が喚く。
「俺が思うに大太羅ってばけもんも、てめえの色を決めずに思うがまんまに〈変異〉をばらまいてるんだと思うぜ。でなきゃ、こんなとっちらかった体になるかよ。人がばけもんに成り果てる世ができるかってんだよ畜生。なあ、お前もそう思うだろ」
もうそんな話はどうだってよかった。
「色々聞かせてくれてありがとよ。悪いけどもう行くよ」
「おいおいおい、行くってまさかこの先にじゃあねえよな。ほんとに頭イカれちまったんじゃあねえのか。何をするにもまずはてめえの命だろうがよ。金にもなりゃしねえんだろ」
庚申を見ていると酷く虚しい気持ちにさせられた。金のことしか頭にないんだと改めて思い知らされ、無性に悲しかった。何と答えようかと口を開いたり閉じたりさせていると、庚申の向こうで何かがもそりと動いた。
炭の山から突き出た細い足が、地面を探っていた。
声も出せぬ内、黒の塊が身を起こす。
よたつき、ぎこちなく体の均衡を取ると、なくなった頭をがくりと落とす。
「お、おい。まずいんじゃねえか」地面を漁っていた男の一人が呟いた。
黒の首、その断面が見る間に赤熱し始め、周囲の空気がぐにゃりと歪む。体中から煤を撒き散らし、吹き出た火花が宙で踊った。
庚申が首切れ馬の
ぽ、と荒野に火が灯ると同時、この世のものとは思えぬ絶叫が辺りに響き渡った。
だが、それもごく僅かな間だった。火の玉が一つ手足を振り乱して踊ったかに見えたが、またたく間にそれもかき消え、舞い散る煤が晴れた後には、元通り黒の荒野があるだけだった。首の断面から漏れる飛沫が、地面でじじじと火を立てる。
その音を背中に聞きながら要一を前に抱え直し、俺は岩陰に転がり込んだ。首筋に熱を感じ咄嗟に身を丸める。毛髪の焼ける臭いと共に、たった今いた場所を炎が走った。背筋に鳥肌が立った。
頭が無いとは思えないほど正確な狙いだった。この様子じゃ、岩陰から様子を伺うことすらできそうにない。馬に引き摺られてきた庚申が無数の目でじっと俺達を見ていた。その背後には同じく岩陰に隠れに来た男が三人。
「奴はじきに岩を回り込んで来る。それに合わせて俺達も動くんだ」岩肌に身を貼り付けるようにして男が言う。「岩を挟んで反対側を維持し続ければ焼かれやしない」
「お前何いってんだ」庚申がつぶやく。「奴には翼がある。岩なんかにへばりついてりゃ、じきに頭っから焼かれちまう。それより俺に考えがある」
俺たちの顔を順に見ながら庚申が妙に落ち着いた口調で続ける。
「奴の火炎はおっかねえが、えらく直線的だ。それに射程もさほどじゃねえ。ってことはだ、いいか、同時に放射状に逃げちまえば、奴は俺たち全員を追うことができねえ」
「――な、なるほど。だけどもし追われた奴は……」
「恐らく死ぬだろうな。だが全員おっ死ぬよりゃましだ。違うか」
困惑と覚悟を孕んだ唸り声が落ちる。岩のあちらで地面を掻く音がした。
「いいか、俺の合図で全員同時だぞ」
その場の全員がうなずいた。庚申の提案に乗るのはすっきりしないものがあるが、要一を担いだまま生き延びるには他に手が思いつかなかった。
「いいか、まだだ。まだだぞ」
岩の左手から土を掻く音がした。各々の顔に緊張が走る。庚申が左手に目線を送る。
「――今だ!」
男たちが一斉に駆け出すのと同時、俺も走り出そうとした瞬間、腰を強く引っ張られた。
背後、地面に腰を下ろした庚申が俺の腰帯を掴んでいる。
「馬鹿か。お前まで乗っかってどうすんだよ。とっととこっちへきてじっとしてろ」
訳のわからぬまま岩陰に腰を下ろすと、反対側で砂埃が巻き上がった。重たい風と共に空気を押しのけるような音がする。ず、と突き上げるような震動の後、黒いものが空を横切った。遠くの空から炎が垂れ落ち、微かに悲鳴が届いた。
「嗚呼、畜生こうなっちまうか。野郎、旋回して一人ずつ始末してやがる。こいつは逃げたって無駄だな」
「あいつらを囮に使ったのか」
「今更何を言ってやがんだ。お前は生かしてやったんだぜ。感謝しろ」
庚申がへらへら笑う。
嗚呼、駄目だ。こいつは何も変わっちゃいねえ。思えば、全員で逃げるって作戦なのにこいつ自身が馬に乗っていない時点でおかしいと思うべきだったんだ。
「しかしだな、こっからはそうもいかねえ。少しばかり真剣にやらねえとな」
馬に上げてくれ、と頼む庚申の向こう、黒い翼が飛び帰ってくるのが見える。
「いいか、よく聞け。奴の右脇腹には、先の戦いで食らったダンビラの傷がある。加えて、見ての通り、奴の体はてめえの火炎のせいで炭くずみてえなありさまよ。俺がその傷めがけて何発か叩き込んでやりゃあ、どうにかケリがつきそうだとは思わねえか」
いつになく真剣な表情で庚申が続ける。
「――だが、そうするには俺ひとりっきりじゃ駄目だ。お前は右側から回れ。俺は左だ。こいつを奴に投げつけて少しでも注意を引きつけろ」
庚申がこぶし大の石を懐から転がし出した。
「もう騙されるかよ。そんなこと言ってまた逃げる気だろう」
「馬鹿が」庚申が俺の胸ぐらを掴み、声を殺してまくし立てた。「俺がお前を裏切ると思うか。――いいや、わかる。あのときのことを言ってるんだよな。だがあれだって、お前だけ生き延びられたのは裏で俺が手を回してたからなんだぞ。いいか、正直に言えば他の連中なんかどうだっていい。だが、目をかけて育ててやったお前だけは違う。他の誰を切り捨てたって、お前だけは裏切らねえ。お前もその餓鬼を連れてみて、少しぐらい分かっただろう。約束する。これが最後だっていい。今度だけは俺のことを信じてくれ」
腹に抱えた要一を見る。
確かに、こいつと出会ってから俺は――
「来るぞ」言うなり庚申が岩の左手に移動する。「俺たち二人でやるんだ。いいな」
やむなく俺も岩の右手に屈み込み、あちらに着地する化け物の気配に気を集中させた。
庚申が頷く。それを合図に身を乗り出し、握った石塊を化け物に投げつけた。途端に腕に走る強い痺れ。投げつけた石は体の中にずぼりと埋まるようにして消える。庚申の言ったように、胴はすでに炭くずのような有様らしい。今ならば、と二つ目の石を投げつけながら左手を見るが、そこに庚申の姿はない。化け物の頭部が赤熱し始める。
蹄の音が遠く離れていく音がした。
要一の瞳の中に死相の浮かんだ俺が映り込んでいた。
「畜生! すまねえ、俺は大馬鹿野郎だ!」
岩陰に隠れようと身を翻すが、もう遅いのは分かっていた。背後で、ずんっ、と突き上げるような震動があった。同時に、ぼっ、と土を蹴り上げるような音。
来る。
せめてもと身を投げ地に伏せた。目をつぶり身を丸め、要一を抱え込む。
――だが、幾ら待ってもそれらしい影は現れず、何の物音もしなかった。
恐る恐る、岩陰から覗いてみると、化け物の立っていたはずの場所には、赤黒い丸太を抱えた大男が立っていた。その丸太のような太い腕に押しつぶされた化け物の体が、突き崩された炭のように火の粉を撒いて散っていく。要一が息を呑む音がした。
「でかい声で喚いとるやつがおると思って駆けつけてみれば」
男は豪放な笑い声を上げる。聞き覚えのある声だった。
「また危ないところだったなあ、おい」
いるはずのない一つ目の巨躯が立っていた。更に強靭に歪んだ左腕が地面を掴んでいる。
「熊雪!」髭面がにやりと笑った。
「久しぶりだなあ、二人とも。鳥吾は少し背が伸びたか。なんだあ、おい。幽霊でも見るような顔しおって」
「けどよお。お前、だけど、足がよお」
「あんなもん何でもないと言ったろう。まあ、今度ばかりはちと肝が冷えたがな」
熊雪が豪快に笑った。二度と聞けないと思っていた笑い声を聞く内に目玉がじわりと熱くなって、慌てて空を見上げて誤魔化した。
「悪いが要一、鼻先を掻いてくれんか。見ての通り、もう手が使えんもんでな」
近づいてやると要一が熊雪の顔に手を伸ばした。
窮青にやられた足は、切断面のところで肉が盛り上がり丸くなっていた。自立することは難しい様子で、熊雪は回り終えた独楽のように
小さな指で鼻を掻かれ嬉しそうにしていた顔が、ふっと険しくなった。
「――おい待て、その指はどうした。耳も、足もじゃないか。それに他の連中はどうした。六鶴上人はどちらにおられる」
要一の身が強ばった。その尻を二度叩いてやってから、事のあらましを説明した。
熊雪は最後まで聞くと、顔を真っ赤にして俺を睨んだ。それから押し殺した声で、今すぐに帰れ、と言った。
「いやだね。帰らない」
口が勝手に動いていた。
「なぜだ。危険だというのはもう身をもって知っただろう。死んでからでは遅いのだぞ」
「駄目だ。絶対に帰らない」
「行って一体なんになる。お前達が行ったところで何の役にも立たんではないか。要一を気の毒に思うのは分かる。だが、それと無謀な行いをするのは全く別だ。今すぐに帰れ」
俺だってその通りだと思っていた。それでも、帰るつもりはないのだと、魂がそう言っていた。だけど、それがどうしてなのか、説明することができなかった。
「俺達は、帰らない」
俺は真っ直ぐに熊雪を睨みつけた。そうすれば俺の考えが少しでも伝わるような気がしたから。
いつの間にかそばに戻って来ていた庚申がふんぞり返って笑い出した。
「な。誰だってそう思うよな。金にもならねえ、役にも立たねえ。なのにどうして塚へ向かうんだ。理由がどこにもねえだろうが」
「仲間を見捨てるような奴には分かんねえよ」
なんだあてめえ、と声を荒げる庚申。だが熊雪が口を開きかけると静かになった。
「それならわしには説明できるな。どうしてそう無茶をせねばならんのだ」
「馬鹿だからだろ」
庚申が一人笑っている。
俺は熊雪の目を見たまま何も言い返すことが出来なかった。どう言葉にしたらいいのか分からなかった。要一のためではあるが、それだけじゃあ言葉が足りない。他人からしたら無駄に思える事が、俺達にとって大事な何かになっていたから。
「もういい、分かった。とにかく帰れ。今すぐにだ」
しばらく黙っていると、熊雪が俺達を押しのけるようにして丘へと向かい始めた。振り返ろうともしなかった。
その歩みには躊躇など微塵も無かった。お前達とはこれで終わりだと切り捨てるかのようだった。強引に後を追ったとしても、以前の熊雪には二度と会えない気がした。
言わなければ、と思った。
せめて何か一言だけでも、と。
「に……」
無理に開いた口から、そっと風が吹くように声が出た。
熊雪が立ち止まり、振り返った。
「人間だから……」
熊雪がほんの一瞬、はっとしたような顔をした。だがそれはすぐに険しい表情の中に溶けて消えた。
「勝手にしろ。だがここから先は知らんぞ。わしは上人様を手助けせねばならん」
それだけ呟いて、再び丘へと向かい始める。
ほっと息を吐き要一を見ると曖昧に頷き返してきた。
ぽかんとした表情の庚申に、じゃあな、と声を掛ける。
「なんだあそりゃあ。訳がわかんねえ。人間だから、なんなんだ。人間だから、なんだってんだよ。人間だからてめえが大事なんだろうがよ」
庚申がへらへら笑う。
だが、どこかうわずったその声の意味を俺は知っていた。
俺だけは庚申の腹に沈んだ寂しさが痛いほどによく分かった。
「――俺もな、ちょっと前まではそう思ってたんだ。だけど、この旅で少し分かった。多分、三番目なんだ。三番目が大事なんだよ」
「……何だって?」
「命が一番、銭子は二番。じゃ三番目は何だ」
「そりゃお前……飯、だろうがよ」
「それは命と銭の内だろ。三番目だよ。多分、三番目があるから俺達は人間なんだ」
腕を組み、ぐっと押し黙る庚申。要一を背負い直し、今度こそ別れを告げる。
「こ、この野郎! 訳のわかんねえことばっか吐かしやがって! 勝手に行っちまえ馬鹿野郎! 俺は帰るぞ! 目だってろくに見えやしねえし、まだ死にたかねえからよ!」
背中に庚申のがなり声を浴びる。ふと、あいつの声を聞くのもこれで最後かもしれないなと思った。途端にその全てが愛おしくすら思えてきた。
一つ罵り返してやろうかと振り返ると、岩陰に戻る後ろ姿があった。だけど、その小さく丸まった背中を見ると、もう何も言葉がでなかった。
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